2006.1・1 特別アップ
周 初 著、淵邊朋広日本語版監修
台湾における市民社会の形成と民主化
<目次>
まえがき
一 台湾民主化の背景
1 国民党の台湾撤退
2 国民党の改造
3 国民党改造の成果
二 台湾民主化の基礎
1 日本植民地の遺産
2 アメリカからの援助
3 蒋介石台湾撤退時、大陸から持ってきた資財と人材
4 国内戦及び東西冷戦構造下の独裁開発(権威主義)体制の形成
5 儒教などの伝統文化の影響
三 市民社会形成の基礎とした台湾経済の発展
1 工業の回復期(1946〜1952年)
2 輸入代替工業発展期(1953年〜1960年)
3 輸出指向の経済発展期(1961〜1972年)
4 台湾経済の高度成長期(1973年〜1980年)
5 産業構造の高度化期(1981年〜今日)
四 台湾市民社会の形成
1 土地改革による地主から企業主への変身、農民から農業経営者、サラリーマンへの変身
2 中小企業の大量育成による企業主を中心とする中産階級の形成
3 現代工業の発展、国民所得の向上による行政機関、公共事業、専門技術者などを中心とする都会中間階級の形成と発展
4 教育の普及、対外の開放、海外留学経験者の帰国による中産階級の増員
5 台湾の中産階級に関する分析
五 台湾民主化のプロセス
1 「台湾の春」──社会的政治関心の開始
2 選挙の拡大と党外勢力の成長
3 野党の形成
4 「丙寅変法」、国民党内の革新
5 戒厳令の意味
6 「憲政改革」と総統の直選
7 国民党政権の台湾化と台湾政治の多元化
六 台湾民主化に関する分析
1 世界最長の戒厳令は台湾民主の肝心要
2 政治安定は経済発展の前提、経済の発展は中産階級形成の大前提
3 唯一の政治舞台である地方選挙における民主勢力の成長
4 体制内外民主化の同時進行
5 「台独」の限界線
第一部 台湾の民主化
第一章台湾民主化の背景
1. 国民党の台湾撤退
1940年代後半、中国大陸における国民党軍と共産党軍との遼沈、平津、準海の三大戦役が終結し、蒋王朝の没落は決定的となった。1949年6月24日、蒋介石は台北の草山へと撤退し、その地を陽明山と改名して国民党総裁室を置いた。7月23日、台湾を中心とする東南長官署が成立し、陳誠が長官に任命された。7月26日には共産党に敗れたことを教訓に、幹部の集中訓練を実施する革命実踐研究院が陽明山に設置された。
1949年12月8日、国民党政府は正式に台北に移転した。国民党中央非常委員会は1950年2月、アメリカに滞在する李宗仁代理総統に最後通達を出し、三日以内に台湾に戻らなければ代理総統の職務を放棄したものと見做すと通告した(李はこの通達を無視し、台湾に戻らなかった)。1950年3月1日、蒋介石が再度総統の座につき、同月陳誠を行政院長、張歴生を同副院長、周至柔を参謀総長兼空軍総司令、孫立人を陸軍総司令、桂永清を海軍総司令にそれぞれ任命した。9月には台湾の各県・市・所轄区を面積、人口、経済条件に基づいて、16県、5省所轄市、1管理局、361卿、および鎮、県所轄市、区に再編した。16県は台北、宜蘭、桃園、新竹、苗栗、台中、彰化、南投、云林 義、台南、高雄、塀東、台東、花漣、澎湖であり、5省所轄市は基隆、台北、台中、台南、高雄、1管理局は陽明山管理局である。
日中戦争後、台湾経済は著しく衰退した。工業設備は老朽化し、原料も不足、資金調達は困難で技術水準も低下の一途であった。農業分野においても耕地不足による深刻な食糧難に陥っていた。1949年の稲生産量はわずか121万トンであり、農民は大量のサツマイモを栽培して飢えを凌いでいた。国民党の軍事、政務の人員及びその家族約200万人が台湾に押し寄せたことで島内の食糧品・日用品不足に拍車がかかり、物価も急激に上昇した。
国民党の軍事力も弱体化していた。台湾及び附近の島々には合計約60万人の兵力が配備され、空軍は約400機の航空機、海軍は約50隻の艦艇を保有していたが、実際にはその半数は使いものにならない状態であった。そのような状況の中で1949年1月、陳誠を司令とする台湾省警備総司令部が設立され、台湾の安全防備を理由に出入国管理が強化された。5月19日には「戒厳令」を公布、台湾は「戦時動員状態」にあると宣言され、「臨時戒厳」が実行された(戒厳令は1987年7月15日まで継続)。国民党政府は「戒厳法」を根拠に「反乱懲罰条例」、「非常時期農鉱工商管理条例」、「戒厳時期非法集会、結社、デモ、陳情、ストライキなどの規定に関する実行方法」、「戡乱時期ファシストの告発条例」、「戒厳期の新聞、雑誌、図書に関する管制方法」、その他出入国、防衛、交通、電信などの分野における30以上の法令法規を相次いで公布し、社会と経済に対する全面的管制を実施した。新聞に関しては「枚数の制限、プリントの制限」などを内容とする新聞禁止政策(「報禁」)を実施し、新聞の新規登記を認めず、新規登記証発行をストップさせた。そのため1951年から1987年までの36年間、新規に新聞は発行されなかった。
2.国民党の改造
1949年7月26日、国民党の徹底的改造を決意した蒋介石は革命実踐研究院を発足させ、党の改造綱要の作成を命じた。1949年5月から6月にかけて、蒋介石自身も参加した党務整理会議が開催され、国民党の改造に関する議論、具体的には「国民党の改造綱要」や「国民党改造実施のプロセス」などの提案に対する検討が数回にわたって行われた。9月20日、蒋介石は「全党同志への国民党改造に関する通告書」を発表し、党の改造によって敗北の状況を乗り越え、党勢回復を図ろうと、国民党員らに呼びかけた。
1950年7月21日、国民党中常会で「中国国民党改造案」が可決された。7月22日、蒋介石は「党改造の実施に関する説明」を発表し、国民党の大陸での敗北は党組織の崩壊、紀律の不在、精神の衰弱によってもたらされたものだと主張し、国民党の徹底的な改造と再建の必要性を強調した。7月26日、蒋介石が決定した国民党中央改造委員会のメンバーが発表された。9月1日、中改委は「本党改造綱要」を制定し、国民党の改造が本格的にスタートした。
この「改造綱要」の内容は、党の構成、社会の基礎、党組織の原則、幹部、活動方法、トップリーダー、党員の権利と義務、紀律、秘密、党政関係など11項目に分かれている。「党の構成」及び「社会の基礎」について、「綱要」では「本党は青年知識人及び農、工生産者などの労働大衆を社会の基礎にし、愛国の革命者を党の構成員とし、国家及び労働大衆の利益を守るために奮闘する」と定められていた。1950年9月以降の2年間、国民党は党改造に関する決定を30種類以上発表した。政治、思想、組織などの多岐の分野に亘る、国民党の全面的な改革がここに始まった。
3.国民党改造の成果
中央改造委員会の設置から1952年10月10日の国民党第七回全国代表大会の開催まで、国民党の改造運動は2年2ヶ月間続いた。その間に、国民党が大陸にいた時期と比較して労働者、農民そして青年知識人出身の党員が増加、政治的腐敗は制約され、風紀は改善、党内の混乱状態も改善されが、結果的に3分の1以上の党員(約21万人)が除名された。1952年10月10日から20日まで陽明山で国民党第七回代表大会が開催され、その場で改造運動の成功が宣言された。この大会では国民党のトップ人事にも大きな変化が生じた。それまで国民党の党務を握ってきた陳果夫、陳立夫兄弟が中央改造委員会から排除され、陳果夫は1950年8月に病死、陳立夫はアメリカへの永住を余儀なくされた。于右任、阎锡山、何应钦などの実力派「元老」は「中央評議委員」、「総統府戦略顧問」、「資政」などのポストに就き、権力の中枢から外れた。その一方で蒋介石の息子蒋経國は中央の政策決定機構入りを果たし、他に蒋父子と関係の深い黄國書、黄朝琴、連震東、丘念台などが党の要職についた結果、党指導部の若帰りが実現した。蒋経國は蒋介石に次ぐ国民党ナンバー2となった。
第二章台湾民主化の基礎
1.日本の植民地統治の遺産
日本の台湾統治はおよそ50年間続き、初期には「銃剣の政治」(武断政治)が行われた。初期の7人の総督は全員軍人の出身であった。台湾の民衆は日本の占領に服せず、各地で反抗運動を行なったが、植民地政府はその動きを弾圧し、民衆を虐殺した。結果、総督の独裁制、特殊警察制度、連帯責任制度が実施され、ここに台湾植民地統治の三大柱が確立された。しかし、「銃剣の政治」だけで台湾民衆の心を征服することはできなかった。第4代台湾総督であった児玉源太郎は、1900年以降「注油政策」を提唱し、植民地統治を一台の「機械」に、統治者を「機械」を管理する「総技師」に喩えて、「技師」は絶えず油を注入してこの「機械」が順調に稼動するように勤めなければならないと、植民地統治の機微を説いた。
その後、台湾経済発展のための一連の経済改造措置が実施された。日本の植民地当局は土地調査と登録作業を実施したのち、広大な土地を没収(「政府化」)、最終的にはその大部分を日本人官吏及び資本家に低価格で譲渡した。また油、塩、タバコ、酒などの日用生活品を政府の専売とし、百種類以上の税を課した。それらの措置がとられると同時に日本の独占資本が台湾に大挙進出し、台湾の工業、商業、金融業を支配した。結果、日台貿易は急速に拡大し、大陸沿海及び香港との伝統的貿易に取って代わった。
他方、台湾植民地統治を維持するために、清朝政府からの賠償金及び台湾民衆から徴収した財政収入の一部が台湾のインフラ整備に使われた。最初は主に地下資源の調査、鉄道、公路、港湾、水力、電力などに使われ、後には軍事施設、防空施設、救急施設、空港、気象台、ラジオ局そして神社などの建設に投入された。これらの財政支出は客観的には台湾経済の発展を促し、台湾工業の基礎を築くこととなった。
1945年8月、日本は第二次世界大戦に敗北し、無条件投降した。台湾は日本の植民地から中国領へと変わった。戦後、国民党が日本人から接収した工場は5,969社、その中には食品工業が2,815社、機械業が645社、紡績業が109社あった。これらの工場に勤めていた従業員の数は約25万人であり、その中で大学や高等技術専門の教育を受けた者は約1,500人いた。
1951年9月、サンフランシスコ平和条約締結によって日本は国際社会に復帰し、翌年の1952年4月には日台間で「平和条約」が結ばれた。これにより日本と大陸中国とが国交回復するのではないかという蒋介石の心配は杞憂に終わった。同年5月、蒋介石は日本人記者と接見した際、「台日の協力こそが東南アジアの安定につながる」と日台が連携していくことの重要性を強調し、陳誠台湾行政院長も立法院において「自由世界が共産党の侵略の脅威に直面しているこの時、台日『平和条約』の実現は特別な意味を持つ」と述べた。蒋介石は張群を自らの代理として日本を訪問させ、8月中旬、日台は相互に大使を派遣した。
1952年7月、台湾日本経済協会が設立され、日台双方は経済における「共同発展」、政治における「共同反共」を宣言した。その後、日本と台湾との経済関係は急速に進展した。50年代中期、日台の経済関係は敗戦前の水準にまで回復し、台湾の対日輸出額は輸出総額の半分を占めるまでになっていた。そのような状況の下、日本企業は60年代に入ってから台湾への投資を急速に拡大した。台湾政府の統計によると、1952年から1970年までの間に日本の対台投資プロジェクト件数は386件あり、外国の対台投資プロジェクト総数の65.7%を占めた。その他日本からの技術援助、人材養成、先進機械設備の提供などの諸々の援助は台湾経済の発展に大きな役割を果たした。
1990年代に入り日台の経済貿易関係は更に発展した。統計によると1994年の日台貿易の総額は345億ドルに達し、そのうち日本の対台湾輸出額は238億ドルであった。一方の台湾にとっても日本は第3位の輸出国であり、同時に最大の資金供給国となっていた。
2.アメリカからの援助
台湾に対するアメリカの援助は、経済面でのそれと、軍事面でのそれとに分けられる。
1950年後半から65年までに実施されたアメリカからの援助の規模は、合計約15億ドルであり、そのうち1950年から1956年の間に衣食住に関する無償援助約6.09億ドルが実施された。1957年から1961年の間には台湾の物価安定、国際収支の均衡及び財政赤字の補填を行うための無償援助と低金利借款が同時に実施された。1962年から1965年の間には約3.22億ドルの低金利借款、いわゆる「開発援助」が実施され、台湾の産業、工業、商業の育成とその発展に重要な役割を果たした。
1950年から65年までの15年間に実施されたアメリカの援助は、台湾のインフラ整備に関わる投資総額の約34%を占めていた。一例を挙げれば、台湾の電力部門はアメリカからの援助を最初に活用した部門であり、1950年から1961年の間に電力プロジェクトに投入された援助の総額は約1.52億ドルであった。他には化学肥料の6大新規工場の建設費の約60%がアメリカからの援助によって賄われ、台湾最大のダム工事であった石門ダム工事にも2,940万ドルが使われている。交通運輸部門では1950年から1961年の間に4,320万ドルの資金が使われ、農業部門では1951年から1961年の間に「中米農村復興連合委員会」を通じて680万ドルおよび2.75億新台湾元が提供されている。アメリカの援助を利用して輸入された肥料、大豆、小麦、棉、油糧などの総額は約5億ドルであり、これらの輸入食料品は台湾の物価安定やインフレ抑制に多大な影響を及ぼした。1950年代、アメリカからの援助物資を利用して回収した貨幣の総額は約182億元であり、1951年度の財政赤字を補填したアメリカからの援助額は、新台湾元に換算すると約9,200万元、1964年には約21.42億元にまで増加した。1951年から1961年までの10年間、台湾の国際貿易赤字の約90%はアメリカからの援助によって補填されていた。
朝鮮戦争勃発後、アメリカは台湾の武装化を進めた。1950年6月29日、アメリカ第七艦隊の巡洋艦2隻、駆逐艦6隻、補給艦1隻が台湾に配備され、これを手始めとしてアメリカからの軍事援助が次々と台湾に投下された。当時のアメリカの援助の内容は非公開であるため、その実態を把握することは困難であるが、外国通信社の断片的な報道によると、1953年までにアメリカが台湾に提供した軍事援助の総額は約6億7,000万ドル、その他にも経済援助に含まれた軍事援助の額は約8,000万ドルにのぼった。1949年の末、戦車250台と陸軍5個師団が台湾に配備された。1950年前半には740台の戦車と装甲車が再軍備のために台湾に送られ、1950年の後半から51年5月にかけて大砲150台、戦車70台、ロケット、平射砲、榴弾砲、重型牽引車などが送られた。1952年6月には軍用車輌(大型トラックとジープを含む)が、1952年2、3月には火砲、機関銃及び工兵の装備が送られた。他には、海軍の武装として各型揚陸艦とその他軍艦90隻以上、空軍の装備としてB-25爆撃機100機、その他にも飛行機部品と通信装備が1950年初頭に台湾に運び込まれ、1950年4月から5月にかけては爆撃機120機、1951年6月には飛行機40機、1952年11月には戦闘機28機、1953年には大量のプロペラ式飛行機やF-84戦闘機が送られてきた。
台湾のある学者は、「1950年代の台湾の安全保障と経済発展はほぼ全面的にアメリカに依存していた。国民党政府はアメリカ以外の国との関係を発展させる努力を全くしなかった」と強調している。
表1.アメリカからの援助額
(単位:万ドル)
|
年次 |
無償援助 |
ドル借款 |
米国480公法(通商法)余剰農産物 |
総計 |
||
|
防衛支出 |
技術協力 開発贈与 |
軍事援助 |
開発借款基金、開発借款 |
第1、2、3章による購買、贈与、借款の合計 |
||
|
1951 |
8005.6 |
23.9 |
1053.6 |
|
|
9083.1 |
|
1952 |
6251.1 |
22.0 |
1254.3 |
|
|
7537.4 |
|
1953 |
7327.3 |
178.7 |
2650.5 |
|
|
10156.5 |
|
1954 |
7942.9 |
185.3 |
2684.4 |
|
|
10812.6 |
|
1955 |
10360.0 |
340.0 |
3100.0 |
|
|
13800.0 |
|
1956 |
7000.8 |
329.5 |
989.1 |
|
|
8319. |
|
1957 |
8000.0 |
375.0 |
700.8 |
|
980.0 |
10055.8 |
|
1958 |
5064.7 |
300.0 |
792.6 |
2813.6 |
1210.0 |
10180.9 |
|
1959 |
6348.5 |
250.0 |
648.4 |
1160.0 |
1340.0 |
9746.9 |
|
1960 |
6418.8 |
279.5 |
385.2 |
4000.0 |
889.5 |
11973.0 |
|
1961 |
4750.5 |
210.0 |
245.6 |
4000.0 |
2140.0 |
11350.0 |
|
1962 |
|
320.0 |
|
2520.0 |
6392.4 |
9232.4 |
|
1963 |
|
212.5 |
|
2150.0 |
5564.0 |
7926.5 |
|
1964 |
|
230.0 |
|
1500.0 |
4273.0 |
6003.0 |
|
1965 |
|
60.0 |
|
|
7680.0 |
7700.0 |
|
1966 |
|
|
|
|
230.0 |
230.0 |
|
計 |
77470.2 |
3316.4 |
14518.4 |
18143.6 |
30698.9 |
144147.5 |
出典)鹿島平和研究所編『中華民国・華僑』鹿島研究所出版会1967年p45より作成
3.大陸から流入した資財と人材
1948年12月30日、蒋介石は台湾で休養していた陳誠を台湾省主席に任命し、翌年1月16日には台湾省警備総司令官を兼任させた。その際蒋介石は、台湾へ撤退するための準備作業を陳誠に任せ、更に「国庫に現存する銀、黄金及び米ドルを全部台湾に運べ」という極秘の命令を下していた。
李宗仁(元国民党政府臨時総統)の回想によると、その際に大陸から台湾に移転させた財産は、貨幣、有価証券など約3億3,500万ドル、黄金約390万オンス、銀などを入れると合計約5億ドルに達した。その他に約3,000箱の銅器、磁器、玉器、漆器、琺瑯、文具、芸術品など、国宝を含む合計約23万件が台湾に移送された。
1949年、台湾の総人口は1945年の約600万人から約800万人に急増した。この4年間に大陸から台湾に移住した人口は約200万人、総人口の4分の1を占め、そのうち軍人は約60万人であった。
大陸からの移住者を大雑把に分類すると下記の5種類である。@国民党の要員及び高級経済管理官僚、A大学教授などの学者及び各行政分野の管理専門家、B紡績などの企業経営者及び専門技術者、C国民党軍の将校、D以上4種類の移住者の家族及び学生。これらの移住者に共通しているのは富裕層出身でかつ高学歴ということであり、彼等はその後の台湾の改革と経済発展に大きく貢献することとなる。
4.内戦及び冷戦構造下での開発独裁・権威主義体制の形成
蒋介石の国民党政府が台湾へと敗退した直後、台湾は内政と外交の両面で深刻な危機に直面していた。この時期、それまで国民党を支持してきたアメリカまでもが蒋介石を見放そうとしていた。1949年8月、アメリカ国務省は『アメリカと中国の関係―1944~1949年の時期に重点を置く』と題する白書を発表した。このいわゆる『中米関係白書』では、「アメリカが大規模な軍事援助と経済援助を行ったにもかかわらず、自身の腐敗・堕落・無能によって国民党の敗勢はほぼ決してしまった。アメリカはこの事態に最早対処のしようがない」と述べられている。アメリカは既に蒋介石に失望しており、崩壊寸前の国民党政権を支持しないと表明していた。1949年12月23日、国務省は台湾政策に関する内部指示を出した。その趣旨は以下の通りである。すなわち、台湾へと撤退した国民党政府が再び共産党に敗北するのは必至であり、アメリカは台湾に対する一切の責任と義務を負うべきではない。アメリカは台湾に基地を設置し、軍を派遣し、武器を供給するなどといった軍事援助を行うべきでない。さもなければアメリカは大規模な戦争に巻き込まれる恐れがある、と。一週間後、国務省は上述の指示を正式に台湾国民党政府の顧維鈞駐米大使に通知した。1950年1月5日、トルーマン大統領はホワイトハウスの記者招待会でアメリカの台湾政策を発表し、「アメリカは現時点においては台湾から特別の権利を取得し、軍事基地を設置することなどは考えていない。従って軍事顧問の派遣を含む軍事的援助を台湾の中国軍に提供しない」と明言した。
1949年末から1950年初めにかけ、台湾海峡は開戦直前の緊迫した空気に包まれていた。国民党軍は台湾海峡を挟んで対峙する人民解放軍との間で一触即発の事態を迎えていたが、この時、国民党は四面楚歌の状態であった。蒋介石はアメリカの支持なくして台湾の防衛は不可能であるということをよく理解しており、アメリカの同情と援助を得るべく、妻の宋美齢をアメリカに派遣して「夫人外交」を行ったが、アメリカ側の反応は冷やかだった。だが、蒋介石が絶望しかけていたその時、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争は台湾の危機的状況を一転させ、蒋介石の台湾死守に新たな希望を与えることとなった。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮人民軍は38度線を越えてソウルを占領し、8月上旬までに朝鮮半島南部の90%を制圧、李承晩の部隊は大丘、釜山周辺まで撤退した。第二次世界戦争後の冷戦時代において、朝鮮半島は米ソ対立の一つの焦点であり、そうであるが故に、韓国軍の敗退はアメリカにとって決して容認出来るものではなかった。朝鮮半島で戦争が勃発したというニュースが伝えられた翌日、トルーマン大統領は休暇を中止してワシントンに戻り、軍事と外交担当の13人の政府高官を召集して緊急会議を開いた。6月27日、トルーマンはアメリカが韓国と台湾への軍事的関与を行ういわゆる「6月27日声明」を発表した。この声明を境にアメリカの台湾政策は一変し、台湾は朝鮮戦争における太平洋防御線の一環に位置づけられることとなった。アメリカ統合参謀本部議長とアメリカ極東軍総司令官は連名で台湾政策に関する緊急声明を発表し、「太平洋防御線は日本、沖縄から台湾、フィリピンにまで至る一帯」であり、台湾は「永遠に沈没しない航空母艦」である、そうであるが故に台湾を非友好的政権に譲り渡すことはアメリカにとって大きな損害であると、台湾の戦略的重要性を強調した。
一方、6月25日に朝鮮戦争勃発のニュースを聞いた蒋介石は、ソ連の挑発に驚愕すると同時に恐怖を覚えていた。この時、蒋介石が一番危惧していたのは、ソ連が金日成を支援して李承晩を攻め落とし、続いて中国を支援して台湾を攻撃するというシナリオが現実のものとなることであったが、当日の夜10時、国民党政府の邵敏麟韓国駐在大使から蒋介石の元に届けられた報告書の内容は、その心配を打ち消すものであった。報告書では、朝鮮戦争は台湾にとって百益あって一害もなく、我々を見捨てて中共を承認しようとしたアメリカの政策が朝鮮戦争勃発によって大きく転換することになるという分析がなされていた。
1950年6月27日、台湾政策転換に関するトルーマン声明は台湾にも届けられた。6月29日、アメリカ海軍の四大主力艦隊の一つである第七艦隊が台湾海峡に侵入した(編成は駆逐艦6隻、巡洋艦2隻及び輸送艦1隻)。7月8日にはアメリカ第七艦隊司令官が台北を訪問し、7月28日にはアメリカ海軍将校が軍事代表として台湾に派遣された。7月31日にはアメリカ極東軍総司令官以下16名の高級軍人代表団が台湾を訪問し、蒋介石は宋美齢夫人とともに空港で彼等を出迎えた。翌日、アメリカと台湾との共同防衛協定が結ばれた。協定には「澎湖諸島を含む台湾島が眼前の中共に侵攻されないための対策を即に実施しているが、我々の責任として、中共が台湾に進攻した場合には更に有効な措置を講ずべき」との文言が盛り込まれていた。
8月4日、空軍の駐台指揮所を建設するためにアメリカ空軍の司令官が台湾に到着し、その後アメリカ製F20型戦闘機が台湾に配置された。9月10日、アメリカ国務長官は11項目に亘る新極東政策を発表し、「我々は台湾に対する経済的援助の他に軍事的援助も行い、台湾の防衛力を強化する」と明言した。
上述のように、東西冷戦構造の下、朝鮮戦争の勃発によって台湾海峡危機が誘発されたが、国民党と共産党との内戦は依然続いていた。蒋介石は「大陸反攻」を高唱し、毛沢東は「台湾解放」を強調して金門、馬祖島への砲撃を指示していた。このような時期に世界最長の戒厳令となる台湾国民党政府による「反乱鎮定動員時期臨時条項」(中国語で「動員戡乱時期臨時条款」)が1949年5月19日に実施され、1987年7月15日に解除されるまで38年間継続した。蒋介石とその長子蒋経国は、自分たちの権威を党・軍・政府・特務(情報、治安)機構すべてに浸透させ、「以党領政」(党を以て政府を導く)、「以党領軍」(党を以て軍を導く)という政策を実施し、中国で唯一の合法政府を自称して大陸で選挙された国会(万年国会)をそのまま維持した。それは国民党と大陸出身エリートによる独占体制であり、ここに台湾独特の権威主義的政治体制(authoritarian regiem)が成立した。
5.儒教など伝統文化の影響
台湾社会を規定する儒教等の伝統文化には、質素・勤勉・向上心・非暴力などの徳目・特徴があり、これらの徳目・特徴を基礎に生み出された集団・国家に対する忠誠心・愛国心は、台湾における開発独裁・権威主義体制を形成し、経済成長を支えた要因の一つだと考えられる。特に「市民社会」が未発達な華人社会においては、儒教倫理や伝統的な社会道徳が機能していることで、国家が強権を以て社会をコントロールすることが可能となり、一時的に民主主義を停止したり反対勢力を抑圧したとしても、国家は治安を確立し、国家主導による工業化、経済開発を行うことが可能となった。その後、経済発展によって中産階級が形成され、続いて民主化運動が発生、激化、最終的に独裁政権が溶解して民主化が達成されるというプロセスが、華人社会である台湾、シンガポールなどの地域や国家で実現していった。
前述したような戒厳令、そして開発独裁体制を長期間に亘って維持出来た理由の一つとして考えられるのは、東西冷戦と内戦の継続という環境の下で、国民党政府が儒教などの伝統文化やナショナリズムを活用し、自身こそが「中国唯一の正統政府」であると主張して「暴力の大陸共産党」、「民主主義の国民党」を人々に印象付け、それによって台湾島内の混乱や国際的孤立などの危機を乗り越えてきたということである。
儒教などの伝統文化の精神は国民党の土地改革にも色濃く反映されている。台湾の土地改革の基礎的な理論及び方法論は、欧米の理論や文化に基づくものではなく、太平天国の「天朝田畆制度」や孫文の「民生主義」(「三民主義」、民主、民権、民生の一つ)、そして中国共産党の土地革命の理論と経験を参考にしつつ、それらに改善を加えたものである。特に、土地革命実施の際の地主の大量殺害を大きな教訓に、台湾の土地改革を温和な社会改革とする方針が定められたことには歴史的な意義がある。
台湾市民社会の基盤の一つである中小企業主の生成にも、儒教など伝統文化の強い影響を見て取ることが出来る。「寧作鳥頭不作鳳尾」(鳳の尾になるより鳥の頭のほうが良い)というベンチャー精神は台湾などのアジアの華人社会に根強く存在している。「三十而立」(30歳になったら自立、起業する)という言葉に表されているように、若者たちは早いうちに自分の会社を設立し、「老板」(社長)になろうとするが、国家からの保護が基本的に望めない状況の中、根無し草のような華商を支えているのは、伝統文化に根ざした血縁、地縁関係である。台湾の中小企業は家族や親戚を中心とした家族経営の性格が非常に強く、経営の拡大や合理化が求められるような場合でも、その「家族」色は容易には薄まることはない。資金調達も金融機関や政府からの借り入れではなく、ほとんどが民間の「幇」や「会」(地縁、血縁に基づくグループ組織)からのものであり、そこには典型的な儒教精神を見出すことが出来る。
第三章 市民社会形成の基礎としての台湾経済の発展
戦後の台湾経済は、表1「一人当たりGDPの推移」に見られる通り、奇跡的な成長をとげた。この成長の歴史は、農業の安定的成長を基礎に、軽工業から重工業へ、労働集約型産業から資本・技術集約型産業へ、輸入代替型工業から輸出指向型工業へと進展してきた台湾経済50余年間の軌跡である。[王愛玲1]
図1. 一人当たりGDPの推移(ドル)
出典)CEPD,Taiwan Statistical Data Book,1998,p13~208より作成
本小論では戦後台湾の経済発展を以下のような五つの時期に区分し、その発展の概況を述べていきたい。
1.戦後の工業回復期(1946~1952年)
国民党は台湾に撤退した後、日本人が経営していた企業を国有化し、それらを「国営」または「省営」に分けて政府の統一管理の下に置いた。中小企業に対しては目標を設定し、売却と民営化を進めた。1948年6月には「台湾生産管理委員会」(以下、生管会)を設立し、台湾省主席である陳誠を主任に、伊仲容、王祟植、徐柏園などの高級財政官僚を常務委員に任命した。また各国営会社の理事長・社長を生管会委員に任命した。生管会は台湾の工業生産に関する二大原則を確立したが、その内容は、一つには国防分野に関係する生活必需品、輸出品、輸入代替品などの産業を強力に支援すること、いま一つは非生活用品や売り上げが芳しくない製品の生産停止や生産制限をするというものであった。この原則に則って、原材料が不足し、収益の低い砂糖工場や塩工場は生産を停止させられた。
上述の二大原則に基づき、生管会は生活必需品の生産を早期に回復させるとともに、電力、肥料、紡績などの特定産業を優先的に発展させた。そして生管会の下に電力グループ・紡績グループ・技術協力グループ・機材グループ・コンクリート配置グループ・対日貿易グループなどの機構を設立し、資源利用と計画実行に関する調整、指導を実施した。その主な内容は下記の通りである。
1)電力供給の増加。1950年~1953年の間に、台湾当局は米国の援助資金及び海外からの借款、合計4,000万台湾元を利用して烏来、立霧、天輪の三つの水力発電所を建設した。その総発電力は53,750キロワットに達し、東西に分散していた電力システムが一本化されて統一した電力ネットワークが形成された。
2)肥料の生産能力の向上。台湾当局は米国からの支援を利用して現存する肥料工場の生産能力を向上させるとともに、銀行から250万ドルの資金を借り入れ、化学肥料工場を新規に建設した。1952年の化学肥料の生産量は14.2万トンに達し、戦前の最高生産量を越えた。
3)紡績業を強力に発展させるための二つの措置の実施。
A.輸入制限による島内紡績業の保護。
B.「代紡代績」の実施。政府は米国からの援助の原綿を紡紗工場に供給し、製品となった綿紗を紡紗工場から買収、加工費を払う。紡績工場に対しては綿紗を供給し、製品となった布を買収、加工費を払う。このような方法によって市場価格の振れを抑制し、企業の利益を保証して紡績業の発展を促進した。
2.輸入代替工業の発展時期(1953年~1960年)
工業回復期の努力によって台湾の財政状況は改善されたが、それと同時に多くの困難を抱えることとなった。具体的には、
@ 軍事費の増大によって財政赤字が増加し、インフレの危機に直面した。
A 人口増加が急激であったために雇用不安が生じた。1949年の台湾の総人口は600万人であったが、1952年には一気に812.8万人となり、失業率は4.4%にまで上昇した。
B 台湾住民の純貯蓄率は5%に過ぎず、アメリカからの援助に依存した経済の継続的発展は困難であった。
C 国際収支は大幅な赤字であり、外貨不足に陥っていた。
D島内市場は小さく、台湾住民の所得水準も低かったために、内需拡大による経済成長はあまり望めなかった。また企業は技術水準が低く、規模も小さく、コスト高であったため、製品の国際競争力がなかった。
これらの問題に関する検討を基に、台湾政府は「四ヵ年経済建設計画」を作成した。
台湾政府は1953年に第一期「四ヵ年経済建設計画」を開始し、輸出拡大または輸入縮小に貢献可能な工業を優先的に発展させた。また、民営化可能な公営企業に対して、民間の投資を奨励した。当時、台湾の地元原材料を利用した輸出可能な製品は砂糖・茶・梨缶詰・香芋油などの農産物加工品だけであった。地元原材料や輸入原材料を利用し加工した輸入代替品は、コンクリート・ガラス・木製品・紙パルプ・肥料・小麦粉・食用油・紡績品・プラスチック・自転車・ミシン、そして少量の電気製品などであった。
1955年に第一期「四ヵ年経済建設計画」が終了した時点で、台湾工業の輸入代替工業化は相当程度進んでいた。その結果を受けて台湾政府は、第二期「四ヵ年経済建設計画」を策定した。そこでの目標は「資源の開発、農業の増産、工鉱事業の発展を加速させ、輸出拡大によって国民所得を高め、就業人口を増加させ、国際収支のバランスを取る」というものであった。
第一期、二期の「四ヵ年経済建設計画」実施中、海外からの経済的打撃を防ぐために、台湾政府は保護関税制度(1955年の輸入税修正による関税率の大幅引き上げ)や商品輸入管理制度、複式為替レート制度、工場設立制限制度(1950年代に制限した業種はゴム製品・石鹸・電球・小麦粉・味の素・植物油・アルミ製品など)などを実施した。台湾工業はこのような保護貿易政策の下で発展し、その結果1953年から1960年までの7年間に製造業の年平均成長率は13.1%に達し、GDPにおける工業生産占有率は1953年の17.7%から1960年の24.9%に上昇、工業就業人口の比率は就業人口の17.6%(1953年)から20.5%(1960年)に上がった。台湾は工業化社会への第一歩を踏み出した。
3.輸出指向経済の発展時期(1961~1972年)
輸入代替工業化が進んだことで繊維産業などが発展したが、島内の市場規模には自ずから限界があった。そのため輸出指向型産業への転換が始まった。1963年9月、台湾行政院は「美援会」(アメリカは中国語では「美国」)を「国際経済合作発展委員会」に改組し、二つの基本的任務を与えた。一つは、長期経済建設計画の作成と実施措置の調整、今一つは、海外からの資金と技術援助を計画に統合して運用することであった。
1950年代末から60年代初期にかけて、台湾政府は輸出を促進するために下記の政策を策定、実施した。
(1)資金不足を解消して輸出を奨励するため、1ドルを40台湾元とする単一為替レートを設定した。
(2)「投資奨励条例」を制定した。1961年、台湾政府は「十九点財政改造措置」の投資促進に関する内容を「投資奨励条例」に取り入れ、製品の50%以上を輸出する企業に対して、5年間の免税や減価償却加速などの優遇措置を実施した。そして利益を配分せずに増資や設備投資をする企業に対しても、4年間の免税や減価償却加速の優遇措置を実施した。同時に、上述の企業に対して、利益に対する所得税及び付加価値税の徴収を前年度総収入の25%以下に抑える優遇措置を実施した。
(3)民間の貯蓄を奨励し、その貯蓄を経済発展のための資金に充てた。
(4)政府名義で海外資金を調達した。
(5)輸出メーカーに対する税と融資に関する優遇措置を実施した。
(6)「工業開発区」、「輸出製品加工区」そして「免税倉庫」の設立を促進した。1968年以降、高雄、楠辛、台中などの三つの輸出製品加工区を設立し、各種の優遇措置を実施。よれによって輸出指向型工業の発展を促進した。

図2.台湾の輸出品構成の推移
(単位:%)
出典)CEPD,Taiwan Statistical Data Book,1998,p13~208より作成
輸出指向政策の実施と世界経済の好転によって台湾の工業は急速に発展し、1963年~1973年の年平均工業成長率は18.3%に達した。工業生産のGDPに占める割合は1962年の25.7%から1972年の40.4%に上昇、工業就業人口の就業総人口に占める割合は1962年の22.6%から1972年の32.0%に上昇し、輸出品中における工業製品の比率は1962年の32.3%から1970年の78.6%にまで伸張した。
4.台湾経済の高度成長期(1973年~1980年)
経済規模の拡大と工業の急激な発展にもかかわらず、台湾経済は1970年代に入って新たな問題に直面することとなった。それは以下の通りである。
(1)交通、電力などのインフラの整備が経済成長に追いつかず、瓶の口のように工業の発展を制約していた。
(2)委託加工が主体の輸出工業であるために外需などの外的要因に左右されやすく、脆弱な経済になってしまっていた。
(3)労働集約型工業の急速な発展によって、失業率が大幅に下落し、1972年には1.5%になったが、その一方で労働力不足、賃金の上昇、国際競争力の低下などを招くこととなった。
しかし、その一方で輸出工業の進展は台湾工業の更なる発展を準備したと考えることが出来る。その理由は以下の通り。
(1)輸出工業の急速な発展によって生産規模が大幅に拡大し、原材料、部品などの中間部材の需要も急増した(特に化学繊維やプラスチックなどの原材料が)。そして産業規模の拡大によって、機械、電機、鋼材などの生産材料の需要も増加した。
(2)台湾住民の所得が急速に増加した。それに伴う貯蓄率の大幅な上昇は資本の供給と投資能力を増強させた。
(3)工業の発展と教育の普及により、専門的技術者の十分な供給が可能になった。
台湾政府は工業発展のための諸条件を検討した結果、台湾で重化学工業を重点的に発展させることが可能だと判断した。素材産業としての公営企業(川上産業)が生産した化学繊維、プラスチック、鉄鋼などの原材料を輸出加工業としての民間企業(川中そして川下産業)に提供することによって、輸出を更に促進することが出来ると政府は考えていた。この目標を実現するために、台湾政府は1973年に「国家十大建設」計画を策定し、鉄鋼、造船、石油化学工業の育成とエネルギー開発、原子力開発、桃園国際空港、南北高速道路、鉄道電化、北回り鉄道、台中港、蘇澚港などのインフラ整備を行っていった。
この時期に台湾で大規模な重化学工業建設やインフラ整備が行われたのにはもう一つの要因(外的要因)があった。それはすなわち、台湾の国際的孤立である。1971年7月のニクソン・ショック(ニクソン米大統領の訪中発表。訪中実現は1972年2月)と中華民国の国連脱退・中華人民共和国の国連加盟、そして1972年の台米、台日断交。この国際政治の変動によってもたらされた台湾の政治的孤立は、国民党政府にそれまでの台湾での「仮住まい」から「定住」へという戦略の転換を迫ることとなった。「大陸反攻」を掲げつつも、国民党政府は国際的孤立の中で台湾経済を立て直し、自己の政権基盤の安定化を図らざるを得ないという状況に追い込まれていたのであった。
「国家十大建設」が行われた時期は台湾の経済発展にとって非常に重要な時期であった。この時期、交通・電力の分野が大幅に拡充され、大規模な製鉄工場、造船工場、石油化学工業が建設された。そして、いわゆる「逆向的発展」方式によって川上・川中・川下産業がリンクした精緻な工業システムが構築され、これにより台湾経済の高度成長が実現した。計画期間中、台湾の輸出の年平均成長率は18.4%であり、工業生産の年平均成長率は14.4%であった。GDPに工業生産が占める割合は1972年の40%から1980年の44.7%に上昇し、輸出商品中の工業製品の比率は1970年の78.6%から1980年の90.8%に増加、就業総人口に工業就業人口の占める比率は1972年の32.1%から1980年の42.4%に上昇した。
5.産業構造の高度化時期(1981年~)
1980年代、プラザ合意による台湾元高ドル安は、従来の低賃金の労働集約型輸出加工業に大きな打撃を与えた。労働集約型の輸出産業はマレーシアやタイなどの東南アジア地域に移転し、その後、中国大陸に生産拠点をシフトしていった。この産業構造の高度化時期は二つの段階に分けられる。すなわち、工業システムの調整段階(~1986年)と産業構造の高度化段階(1986年~)である。
1979年、台湾政府は「経済建設十年計画」を策定した。この計画では機械・通信・電子・電機などの高付加価値・技術集約型工業を積極的に発展させていくことが宣言され、これら業種を発展戦略工業だと明確に定義し、100余りの優先発展製品を選抜してその発展を促進していくための優遇措置が実施された。その具体的な内容は以下の通りである。
(1)1980年に新竹科学工業園区・通信工業促進会を設立した。そして工業技術研究院に電子研究所・材料工業研究所・機械工業研究所を設置し、集積回路や新材料、自動化設備の発展を加速させた。
(2)中国輸出入銀行を設立して機械と資本の輸出を支援した。また、交通銀行を開発銀行に改組し、開発基金の使用を促進することで、戦略性ある産業及び国の重点プロジェクトに低金利の長期資金を提供、投資を奨励した。
(3)「投資に対する奨励条例」を修正し、従来の奨励措置とは別に将来性のある産業に対する新たな奨励措置を実施。技術集約型工業に対して10%~15%の投資免税措置を行った。一方で、エネルギー消費が著しく、需要が飽和状態になっていた重化学工業製品を奨励項目から除外した。
(4)重化学工業の投資計画を調整した。
1980年以降、台湾政府はハイテク部門への外資系企業誘致を加速させ、IC(半導体)や情報処理機器の生産に乗り出した。その結果、台湾の工業生産力は飛躍的に高まり、技術集約型工業が発展してコンピューター産業は世界水準にまで成長した。この時期、製造業の労働生産力指数は1980年の79.15%から1986年の100%まで上昇した(1986年を100%とする)。工業生産総値及びその構成変化係数を見た場合、労働集約型工業を代表する重化学工業、電子工業の1983~1986年の間の変化係数は4.1であった。
その後、台湾政府は、経済の「自由化・国際化」の方針を打ち出し、自由で開放的な競争環境を確立し、市場原理に基づいて経済発展を促進していくという姿勢を明確にした。産業構造高度化の戦略として、1990年の「産業構造高度化促進に関する条例」、1991年の「六年国建計画」、1993年の「経済振興方案」などが次々と打ち出され、続いて「アジア地域運営センター計画」や1997年の「世紀を跨ぐ国家建設計画」などが発表された。
これら一連の計画を実施に移した結果、台湾の輸出製品の付加価値が向上した。1997年に経済部工業局が実施した世界市場における台湾製品の流通状況に関する調査では、世界市場で高い占有率を示す台湾製品は過去の8項目から15項目に増加したという結果が出た。具体的には、電子工業用の基板、キーボード、データ処理器、電源給電器、監視器、ICカード、紡績業用のポリエステル、電子ガラス繊維、化学材料のABS樹脂、金属製品のネジ、自転車及びミシンなどであった。
表2.年代別の台湾上位輸出商品の推移
|
順位 |
1950年代 |
1960年代 |
1970年代 |
1980年代 |
1990年代 |
|
1 |
砂糖 |
砂糖 |
繊維 |
電子製品 |
機械 |
|
2 |
米 |
繊維 |
電機 |
繊維 |
電子製品 |
|
3 |
茶 |
缶詰 |
プラスチック |
プラスチック |
繊維 |
出典)石田浩『台湾経済の構造と展開』大月書店1999年p38より作成
第四章 台湾市民社会の形成
台湾の社会学者である瞿海源らの研究によると、台湾の中産階級は1985年には既に全人口の2割程度を占めるようになっていた(許嘉猷『社会階層化と社会流動』三民書局1990年p187)。一般的には、台湾の市民社会は富裕な農業経営者・専門技術者(建築師・工程師=エンジニア、などの「師」を冠する人々)・企業管理者・公務員・教職員・中小企業主・資本家などによって構成されていると考えられている。
筆者は台湾における市民社会の形成を究明していくには、土地改革を契機とした地主の企業主への変身や農民のサラリーマン・農業経営者への変身、中小企業の大量設立による企業主の形成や公務員・教師・事務職員・自由職業者(弁護士や会計士など)などで構成される中産階級の登場、そして対外開放、外資導入に付随する海外留学経験者の大量帰国による中産階級の増員などをそれぞれ分析し、研究する必要があると考えている。
1.土地改革による変化:地主から企業主、農民から農業経営者・サラリーマンへの変身
国民党が台湾に後退して一ヶ月後、国民党政府の台湾事務担当者である陳誠は、蒋介石の「土地問題の解決は民生主義の急務」との指示に従い、土地改革を担当する新たな組織を設立し、農村問題の調査研究を行って台湾における土地所有の現状を素早く把握した。
国民党が台湾に撤退した当時、台湾本島の耕地面積は81.63万ヘクタールであったが、その56.01%は農村人口の11.69%に過ぎない地主層に占有され、21.57%は国民党の所有であった。農村人口の88.31%を占める農民の耕地は僅か22.42%(約18.3万ヘクタール)であり、小作農(農村人口の33.44%)と雇農(同6.29%)に至っては所有する土地が全くないという有様であった。
台湾における土地改革の理論は、孫文の「三民主義」でも述べられている「平均地権」と「耕者有其田」(耕作者はその田畑を所有すべし)の精神に基づいている。孫文は、封建的搾取者から農民に土地を譲渡する、すなわち、封建地主の私有財産を農民の私有財産に移転することによって農民は封建的土地関係から解放され、そこから農業国が工業国へと転換する可能性が生まれるのだと主張している。
陳誠らは中国本土で土地改革を実施した太平天国や中国共産党の資料を収集し、それらを分析・研究した。太平天国の成立後、その首領である洪秀全は「天朝畑畝制度」を布告、実施したが、この「天朝畑畝制度」は中国史上初の完備された土地改革の綱要であった。それは封建的土地制度を廃止し、農民に土地を配分することで、「畑があれば共に耕作し、飯があれば共に食べ、衣があれば共に着、金があれば共に使う」という平等平均の理想を徹底しようとするものであった。封建社会下、農民階級と地主階級とが厳しく対立をする状況の中で、太平天国の描いた理想の社会像は、貧窮する農民たちの土地に対する要求と願望とを端的に反映したものであった。太平天国の土地改革は農民の生産意欲を引き出したという点で一定の意義があった。ただし、絶対的平均主義に基づく土地分配は、あくまでも個々の農民が耕作を行っていく上での理想であり、社会のすべての財産を分配し、「どこでも平均、皆で暖衣飽食」という理想を実現することは、およそ不可能なことであった。
一方、農民らの広範な支持を得て成功した中国共産党による土地改革については、陳誠とそのブレーンたちは関連する資料を分析し、そこから独自の教訓と結論とを導き出した。すなわち、封建的かつ半植民地的な土地制度を廃止し、「耕作者に畑を与える」土地制度を実現するという中国共産党の土地改革の目的は極めて合理的であり、国民党も大いに参考にすべきである。ただし、その実施方法について、特に「土豪打倒」や「土地分配」といった暴力的手段によって地主の生命、財産を脅かし、その生産意欲を挫いたことについては国民党はそれに学ぶことは出来ず、他のより良い方法を模索しなければならない、と。
陳誠とそのブレーンたちは、孫文の「平均地権」の理念と国民党が制定した「土地法」、「戦時土地政策綱要」、「保安区土地処理方法」、「土地改革法案」などを検討した結果、暴力的手段を用いず、激烈な農民革命につながらない「温和な社会改良」の道を探ることを決定した。1949年以降、「三七五減租」、「公地放領」、「耕者有其田」などを柱とする改革案が相次いで打ち出され、台湾における土地改革が実行されていった。
1)「三七五減租」(小作料引き下げ)
「三七五減租」は、国民党が中国大陸で一定程度実施した「二五減租」(小作農が地主に支払う小作料を収穫量の50%として、その25%を減額する。すなわち、小作料を50%×(1-0.25)=37.5%とする)とほぼ同一の内容である。1949年4月に公示された私有耕地小作料に関する台湾省主席命令によって、小作料は年間収穫量の37.5%を超えないこととされた。1949年4月以前の契約で小作料が37.5%を超えていた場合には37.5%にまで引き下げ、37.5%に達していない契約はそのままとした。陳誠は国民党第六戦区司令官と湖南省政府主席を兼任していた1939年当時、湖北省で「二五減租」を実施していた。1949年に台湾に着任した直後、陳誠は秘書に湖北省時代の「二五減租」に関する資料を整理するよう命じ、その資料を元に「三七五減租」案を起草した。「三七五減租」案は議会での論議を経て可決・成立した。
1949年4月14日、「台湾省私用耕地貸し出し管理条例」及び「三七五減租を進める若干の具体的方法」などの法律、条例が公布された。その主な内容は以下の通りである。
A.小作料の限定。借用地の当年の主要作物収穫量の25%を必要経費(種、肥料などの耕作費用)として差し引き、残りの75%を地主と小作農とで折半して、それぞれの取り分を37.5%とした。同時に、小作料の仮徴収や借用地の敷金などの余分な負担は撤廃された。水害、干害などの天災によって収穫が減少した場合には、小作農は法律に基づいて小作料の軽減や免除を申請することができるようになった。
B.小作農の権利の保証。地主と小作農双方が書面をもって借用期限を6年以上とすることを契約する。地主は途中で契約を打ち切ったり、小作料を引き上げたりしてはならない。借用期間満了後、小作農が引き続き借用を希望すれば、地主が自ら耕作するという理由で土地の返還を求めないかぎり、継続契約が可能となった。
C.地主の利益も考慮。台湾政府は地主たちの不満を最小限に止め、支持を得るために、彼等の利益保護にも配慮せねばならなかった。そのために政府は二つの取り組みを実施した。第一に、小作農が契約通りに小作料を納めることを書面で定める。借用契約期間中に小作農が小作料を二年間滞納した場合、地主は契約を解除することが可能となった。第二に、政治教育による説得工作。陳誠自らが地主たちを招待し、食事を共にしながら政府の土地政策を説明、「三七五減租」は表面的には小作農の負担を軽減するものであるが、実際は地主の利益も保護するものであると力説した。
台湾政府は「三七五減租」を円滑に実施するために、県、市、郷、町それぞれに政府、民間団体、自作農及び地主の代表が参加する「三七五減租進行委員会」を設置した。「三七五減租進行委員会」は耕地の年間収穫量の評定、地主と小作農との紛争調停、耕地の自然災害による減収の見積もり、小作料免除の標準査定、耕地借用契約の補助、その他違法案件の検査、是正、処理などを担当し、「三七五減租」の推進に大きな役割を果した。
1949年7月末までに書面を以って結ばれた「三七五減租」の契約は388,484件、小作料が軽減された契約耕地の面積は25.7万ヘクタールに達し、耕地総面積の31.4%を占めた。これによって利益を得た小作農は29.6万戸であり、農家総戸数の44.5%を占めた。
「三七五減租」実施によって水田の小作料はそれまでの平均48.63%から37.5%に軽減された。1ヘクタールで1年間に2回、合計6,000キロの穀物を収穫できると計算すれば、減租前の小作料相当分が2,917.8キロであったのが、減租後には2,250キロとなり、667.8キロの軽減が実現した。この数字から推計すると、「三七五減租」によって小作農の毎年の小作料は約5.78億キロ軽減され、1農家平均1,952キロの利益を得たこととなる。減租による小作料率の下落は地価の下落を促した。台湾の地政研究所の調査によると、減租後の1949年12月と1年前の1948年12月とを比較すると、水田の価格は平均で19.4%下落し、畑地は42.3%下落した。「三七五減租」が行われた結果、農民の負担は軽減された。農民と地主との対立も緩和され、農民の生産意欲は向上した。
2)「公地放領」(国有地の払い下げ)
第二次世界大戦後、台湾政府は日本人が所有していた土地約17.47万ヘクタールを没収、国有化した。その後、国有地を農民に売却する「公地放領」が実施された。「三七五減租」によって農民の負担は軽減されたが、封建的小作制度は依然存続したままであり、農民の土地に対する要求を満足させることは出来なかった。台湾政府はローン方式による農民への国有地払い下げを決定した。
1951年6月4日、台湾政府は「台湾省国有地払い下げによる自作農支援の実施方法」を公布した。その主な内容は下記の通りである。
A.払い下げの範囲。原則として耕地に限る(少数の養魚池や牧地なども含まれていたが、大部分は水田・畑地)。治水などの目的で政府や関連行政機関が所有を必要とする土地を除き、全てを払い下げる。
B.払い下げの対象。すでに国有地を借用している小作農を第一とし、続いて土地を持たない小作農及び耕地不足の小作農を対象とする。それまで耕作に従事してこなかった農民は払い下げの対象外とする。
C.払い下げの面積。耕地を上、中、下の三等級に分け、個々の農民の耕作能力に応じて適当な土地を払い下げる。一般的な農家は上等の水田0.5甲(1甲は約0.97ヘクタール)、中等1甲、下等2甲、畑の上等1甲、中等2甲、下等4甲の払い下げを受ける。
D.払い下げの地価。原則として市場価格を超えないこととする。その総額は、おおむね払い下げ耕地の年主要作物収穫量の2.5倍とする。支払いの方法は10年間の分割払いと現物償還方法を採用する。払い下げを受けた農民は土地代金を無金利、期間10年で年2回の収穫期ごとに返済していく。
台湾政府は1958年までに6回に亘って国有地総面積の40.3%である約7万ヘクタールの耕地(内訳は水田3.3万ヘクタール、畑地3.6万ヘクタール、その他用地0.4万ヘクタール)を農家総戸数の約20%である14万戸に売却、1農家平均0.5ヘクタールの公地払い下げを行った。台湾政府はその後も数回に亘って国有地払い下げを実施し、1976年までの約20年間に国有地の約76%を占める約13.9万ヘクタールの公地払い下げが行われ、合計28.6万戸の農家が払い下げを受けた。当時の資料によると、国有地の払い下げによる10年払いの負担は、「三七五減租」の負担よりも総額で10~20%低かったため、結果的に農民は大きな利益を得ることとなった(周托等『台湾経済』中国財政経済出版社1980年)。
3)「耕者有其田」(耕作者はその田畑を所有すべし)
1952年7月、蒋介石は国民党中央委員会を開催し、地主の土地を大量に買い上げ、それを低価格で農民に売却する「耕者有其田」政策を台湾で実施することを決定した。
「耕者有其田」とは、耕地を借用した農民が法定範囲内でその土地の所有権を獲得することができ、あわせて耕作地からの収穫すべてを享受できるというものである。具体的には、水田3ヘクタールと畑地6ヘクタールを超えた分の土地を地主から買い上げ、それを土地を持たない、あるいは土地の少ない現役農家に売り渡すというものであった。
台湾立法院は1953年1月20日に「耕者有其田法」を可決し、同年4月23日、台湾省政府は「耕者有其田法実施条例」を公布した。この条例の関連規定は下記の通りである。
A.土地の買い上げ。耕地を貸し出している地主が所有する耕地のうち、中等水田3ヘクタール或いは畑地6ヘクタールを超えた分は政府がそれを買い上げ、農民に売り渡す。
B.価格の確定。政府は地主に対して、買い上げた土地の代金を支払う。その価格は国有地払い下げ(公地放領)の場合と同じで、その土地の年間作物収穫量の2.5倍とし、支払いは土地債券(7割)と公営企業の株券(3割)とで行う(土地債券とは政府が台湾土地銀行に依頼して発行したもの)。年利4%、10年間20回分割で支払うこととする。台湾セメント、造紙、農林、工鉱の四大会社は地主たちに株券を発行したが、この株式発行によって四大会社の民営化が実現した。
1953年末までに政府が地主から買い上げ、農民に売り渡した土地の総面積は約13.9万ヘクタールであり、うち水田は約11.8万ヘクタール、畑地は約2.1万ヘクタールであった。これらの土地は地主の所有する耕地の約30%であり、台湾の耕地総面積の約16.4%に相当した。政府から土地払い下げを受けた農家は約19.5万戸で農家総戸数の約27.9%、1農家あたり平均約10.8畝(畝=6.66a)を引き受けた計算であった。土地を買い上げられた地主は約10.6万戸であった。(表3を参照)
表3.台湾における土地改革の実施範囲
|
実施範囲 |
三七五減租(A) (1952年) |
土地権利の再分配 |
|||
|
公地放領(B) (1948~1958) |
耕者有其田(C) (1953年) |
合計(B+C) |
|||
|
土地面積 (ヘクタール) |
水田 |
213,401 |
33,063 |
117,870 |
150,933 |
|
畑地 |
34,242 |
36,395 |
21,370 |
57,765 |
|
|
その他 |
1,565 |
|
- |
|
|
|
合計 |
249,208 (29.2%) |
69,458 (8.1%) |
139,240 (16.4%) |
208,698 (24.5%) |
|
|
農村 農家 (戸) |
農民 |
302,277 (43.3%) |
139,688 (20.0%) |
194,823 (27.9%) |
334,511 (47.9%) |
|
地主 |
― |
― |
106,049 |
106,049 |
|
出典)何保山『台湾の経済発展』上海訳文出版社1981年p185
4)土地改革の意義と農村中産階級の生成
A.土地改革による工業発展のための基礎形成
土地改革は農民自らが土地を所有することを可能にした。土地を得たことによって農民の生産意欲は向上し、生産量は増大、食糧の安定的な供給が可能となった。生産の拡大と安定供給の実現は台湾農民の生活レベルを向上させ、彼らの購買力を高めた。その結果、工業製品の島内市場が形成された。台湾政府は払い下げ農地の代価を農民から徴収する一方で、地主への補償として公営企業の株券を交付するなどの措置を実施して多額の資金を獲得、これらの資本を政府の工業発展プロジェクトに投資することで1953年からの「台湾経済建設四ヵ年計画」の遂行を可能にした。ここでは土地改革と台湾工業発展との関連について、下記の三点を指摘しておきたい。
第一に、土地改革は土地資本の工業資本への転用・転化を可能にした。土地改革による「買い上げ」と「払い下げ」は多くの土地の所有権を地主から農民へと移転させることとなったが、従来の地主所有の下では「凍結」状態にあった土地資本がこの所有権の移転によって「解凍」され、貨幣や貸付金などの「資本」へと形を変えた。そして地主らがそれら「資本」を工業、商業に投下することによって、工商業資本へと転化した。あわせて、地主らに支払われた代金の3割がセメント、造紙、農林、工鉱の四大会社の株券であったために、膨大な土地資本が直接、工業資本に投下された。
第二に、余剰農産物とその加工品の輸出拡大が工業資本の蓄積を支援した。土地改革によって農民の生産意欲が向上し、生産が大幅に拡大した結果、余剰農産物及びその加工品が増加した。台湾政府はそれらを輸出することで獲得した外貨を、機械設備と工業原料の輸入に投下した。余剰農産物とその加工品は順調に輸出され、機械設備と工業原料の輸入は工業の資本蓄積を支援した。その結果、基礎的な工業生産体系が確立された。
第三に、工業発展に必要な安価な労働力と原料を提供した。農業生産力が向上するにつれて農村では余剰労働力が増加、彼等は続々と都市へと進出し、工・商業における労働力へと変身した。台湾政府はこの機会をとらえて労働集約型企業を強力に支援し、余剰労働力を吸収させた。都会に吸収された農村の余剰労働力は工業生産コストの引き下げを実現するなど、台湾工業の発展に多いに貢献した。
1950年代初期、台湾の人口の75%以上は農村に集中しており、農村での生活用品の需要は台湾全体の商品需要の大きな割合を占めていた。1953年の台湾全島の商品小売総額の約60%が農村での売り上げであり、農村は台湾最大の市場であった。土地改革後、農業経済の発展に伴って農民の収入が増加し、購買力も急速に高まったことで、農村は工業製品にとっても重要な市場になっていった。第二次土地改革では農業の機械化・近代化が進められたため、農業機械設備、化学肥料、農薬などの工業製品の消費が年々増加していった。1953年から1960年までの間の農業の国民経済への貢献率は26.5%であった。

図3.台湾の経済成長率と農業成長率
(単位:%)
出典)『中華民国農業統計要覧』1981年版より作成
李登輝『台湾農業発展の経済分析』(聯経出版1980年)によると、1950年~1955年に台湾の農業部門から非農業部門へと流出した価値は、当時の台湾の農業総生産額の22%であり、その金額は年平均で9億1,605万元であった。1950年代から60年代までの約10年間、農業部門から非農業部門への価値流出は毎年約10億元であったが、1961年~1965年には年平均13.5億元、1966年~1969年には20.8億元という額にのぼった。
土地改革は工業発展のための資金を供給したが、同時に大量の労働力も供給した。農業から工業への労働力の移動は、1950年代後半から80年代前半まで急速に進んだ。図4の台湾の就業者構造を見てみると、1952年の産業別の就業構造は第一次産業が56%、第二次産業が17%、第三次産業が27%であったのが、1981年になると第一次産業が18.9%となり、50年代の3分の1にまで減少している。そして1981年の第二次産業と第三次産業の就業者構成率はそれぞれ41.5%、39.9%となり、50年代のそれと比較するといずれも概ね2倍となっている。

図4. 台湾の就業者構成 (単位:%)
出典)許嘉猷『社会階層化と社会流動』三民書局1990年より作成
B.土地改革後の農村中産階級の形成
一連の土地改革によって農村における生産関係が調整されたことで、農民と地主との階級対立はある程度緩和された。土地改革の結果、多くの農民が土地の所有権を獲得した。一方、地主の保有耕地面積の合計は約7万ヘクタールとなり、以前の保有面積の約15.3%にまで減少した。その後、更なる土地譲渡によって地主の保有耕地は4.7万ヘクタールとなり、台湾の耕地総面積に占める割合は約5%にまで低下した。
自作農は次第に農村の中心的存在となっていった。台湾当局の資料によると、土地改革前の自作農の数は台湾の農家総戸数の約26.3%に過ぎなかったが、土地改革後の1953年末には51.8%に上昇し、その数字は1963年には65.7%に達した。
自作農の中で3ヘクタール以上の耕地をもっている農家は農家総戸数の2.3%で、所有面積は約6.5万ヘクタール、台湾の耕地総面積の約11.8%を占めている。その経営規模は比較的大きく、台湾では「大農」と呼ばれている。0.5~3ヘクタールの耕地を持つ農家は農家総戸数の半数以上の53.5%を占め、所有耕地は約40.4万ヘクタール、耕地総面積の約73%であり、その経営規模は中規模であるため「中農」と呼ばれている。耕地面積0.5ヘクタール以下の農家は約44.2%であり、所有耕地は計8.5万ヘクタール、耕地総面積の15.3%を占めているが、大半は零細な農民で他の職業との兼業である。台湾ではこれらの農民は「小農」と呼ばれている(陳誠編「台湾土地改革紀要」より)。上記の数字からも、土地改革後の台湾農業の生産の主体は、農家総戸数の6割以上、耕地総面積の9割を占める「中農」以上の農家であることがわかる。
1970年代以降、台湾経済の離陸と高度成長によって、台湾の農家は急速に豊かになった。その理由は二つある。一つは農家と非農家との所得格差が徐々に縮小してきたことである。非農家の所得を100とすると、農家の所得は1950年代には非農家の50%以下であったが、1960年代には60%となり、1970年代には70%以上にまで上昇した。
図5.台湾農家と非農家の所得比の推移(非農家所得を100とする)

出典)『中華民国農業統計要覧』1981年版より作成。
二つ目の理由として挙げられるのは、農業就業者の一部が都市に移動したことによって、農家所得の構成が変化し、兼業などによる農業以外の収入が増加したということである。
土地改革は農業生産力の拡大を促した。政府の農業部門の統計によると、1953年から1962年までの間、農業固定資本の年平均投入額は台湾全体の固定資本投入総額の20.87%を占め、1ヘクタールあたりの平均稲生産量は4,793キロから7,483キロに増加、156.1%の増産であった。1952年から1968年までに台湾の農業総生産量は2.2倍に増加、成長が鈍化した1955年と1963年を除いて安定的成長を維持し、年平均成長率は5.2%であった。
1979年以降、台湾政府は「台湾核心農民八万人農業建設大軍養成計画」をはじめとする一連の改革法案を提出し、「第二段階の土地改革」を開始した。その改革の主な内容は以下の通りである。第一に、農地の再区分を加速し、農場規模の拡大と生産性向上を実現するための条件を整備する。第二に、零細農家の転業を奨励し、土地の集中と農場規模の拡大を促進する。第三に、委託経営、共同経営、合作経営などの多様な経営方式を普及させ、経営規模を拡大する。第四に、農業の機械化を促進する。この改革によって1973年から1984年の間に1農家あたりの耕地面積は1.06ヘクタールから1.17ヘクタールに拡大し、1農業人口あたりの耕地面積は0.17ヘクタールから0.21ヘクタールに拡大した。また、農業機械の年平均増加率は約25%であった。
2000年の台湾の一人あたりGDPは約52.57万新台湾元で、ドル換算で約1.34万ドルとなるが、農村では一人あたり約1万ドルになると推測される。
図6.台湾農家の所得構成の変化

(単位:%)
出典)『中華民国農業統計要覧』1981年版より作成。
台湾農村部での自動車及び主要耐久消費財の普及率を見てみると、自動車は1975年の1%、80年の4%、85年の10%、99年の54%というように推移し、カラーテレビは1975年の6%、80年の60%、85年の94%、99年の99%というように推移してきた。要するに、農家総戸数の2.3%、耕地総面積の約11.8%を占める「大農」、及び農家総戸数の半分以上の53.5%、耕地総面積の約73%を占める「中農」は、1980年代には台湾の中産階級の列に加わっていたということである。
農家は土地所有権を獲得したことで生活が豊かになり、社会的地位も上昇していった。華松年『台湾経済奇跡探源』(恒学出版社1992年7月)によると、土地改革以降、自治会の民意代表のうち、農家代表の占める割合はそれ以前の10%から30%へと上昇している。
現実には、土地改革が実施されても農村地主の利益は相当程度保護されていたが、彼等は既得権益を保護されたというだけではなく、この改革によって巨大な利益を得ることとなった。大地主は買い上げられた土地の代価として受け取った四大会社(セメント、造紙、農林業、鉱工業)の大量の株券を元手に、工商業界のボスへと変身した。例えば、台湾を代表する大地主(四大封建的地主)であった辜振甫、林伯壽、林犹龍、陳啓清らは、土地改革を契機に起業し、その後台湾の新興地方財閥へと成長した。その中の一人、辜振甫が経営した台湾セメント公司は台湾のセメント市場を独占した。大地主らと時を同じくして、多くの中小の地主も土地改革によって資金や株券を獲得し、それを元手に工業、商業経営者に転身、台湾の民族産業の発展に大きく貢献した。ここで結論として言えることは、大財閥に成長した大地主、そして中小企業主に変身した多くの中小地主は、後の台湾における中産階級の形成に密接な関係を持っているということである。
表4.土地改革実施中に地価補償としてその株式が地主に譲渡された4公営企業
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公営企業名 |
公営化前の企業名 |
|
台湾セメント公司 |
浅野セメント株式会社、台湾化成工業株式会社、南方セメント工業株式会社、台湾セメント管株式会社 |
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台湾紙業公司 |
台湾興業株式会社、台湾パルプ興業株式会社、塩水港パルプ興業株式会社、東亜製紙興業株式会社、台湾製紙株式会社、林田山事務所 |
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台湾農林公司 |
茶業関係企業8社、パイン業6社、水産業関係企業9社、畜産業関係企業22社 |
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台湾工鉱公司 |
炭鉱業関係企業24社、鋼鉄機械関係企業31社、紡績業7社、ガラス業8社、油脂業9社、化学製品業12社、印刷業14社、窯業36社、ゴム業1社、電気器具業5社、土木建設業16社 |
出典)劉進慶『戦後台湾経済分析』東京大学出版会1975年p28-29より作成
台湾の農家総戸数の6割以上、耕地総面積の9割を占める「大農」、「中農」は、台湾の農村中産階級として登場し、成長してきた。人口ベースで見ていけば、1980年代に台湾の総人口は約2,000万人、労働人口は約800万人であり、そのうち農村労働力は全労働人口の10分の1である約80万人であった。仮に台湾の農村労働力の半分が中産階級になったと推測すれば、台湾農村部における中産階級の規模は約40万人であると言える。
2.中小企業の大量生成と企業主を中心とする中産階級の形成
戦前、「工業は日本、農業は台湾」という日本の植民地政策があったために、商業を除いた台湾産業の大部分は日本人によって所有されていた。戦後、台湾政府は日本企業860社を接収し、そのうち85社を民間に払い下げ、残りの399社を公営化、376社を売却した。戦前に存在した日本人経営の中小企業は、戦後の土地改革や国有企業払い下げなどにより台湾人の地主に譲渡された。戦後、日本人が引き揚げる際にも、相当数の日系中小企業が台湾人に譲渡された。その後、台湾人は土地債券を売却して得た資金や親戚・友人・地縁関係などの各種の「会」(銭会、合会など)から得た資金を利用して経営を拡大し、多くの中小企業を設立していった。
政府が株式の50%以上を所有する企業はいわゆる公営企業であるが、50%以下のものは民間企業と見なされる。行政院経済建設委員会の1996年末の査定によると、台湾の公営企業は104社あり、資本金総額は9,300億元、資産総額は17兆元となっている。
1953年の「公営事業民営化に関する条例」の制定により、継続の必要のない公営企業が民営化され、「工者有其資本」(会社で頑張っている人はその会社の株を所有すべし)政策が実施された。台湾セメント、台湾製紙、工鉱業、農林業の四大公司の株券が土地の代価として地主らに支払われたことによって、農業資本の工業資本への転化が実現した。その他に民営化された公営企業としては、中紡、中本、台北、庸興、台糖などの公司があった。また、台湾鋼場は台机公司に、農業化学工場は台糖に、新竹煤鉱局は台電、台糖、台肥が共同出資した中国煤鉱開発公司にそれぞれ編入され、中国魚業公司は行政院国軍退役将兵指導委員会に譲渡された。
1971年に「国、(県)営事業経営改進方案」が発表され、1949年1月8日公布の「国営事業管理法」の内容が大幅に改められた。この改正によって公営企業に対する行政の関与の割合が縮小し、理事会の機能が高められた。また「事後審議制度」を導入したことによって、公営企業の資金運営上の自主権が拡大した。
台湾経済における公営企業の地位は著しく低下した。民間企業は1952年から1982年の間に生産高が88倍増となり、工業総生産高に占める民営企業生産高の比率は43.4%から80.2%にまで引き上げられた。対して公営企業のそれは56.6%から19.8%へと低下した。
戦後の民間企業の成長をもたらしたいま一つの要因として挙げられるのは、中国本土の紡績資本の台湾への大量流入である。1952年以前、大陸から台湾に流入した紡績民営企業は華南紡績1社のみであり、その紡錘数は台湾全体の紡錘数の20%に過ぎなかった。しかし、1952年以降、華南紡績・大秦紡績・申一紡績・台三紡績・六和紡績・彰化紡績の紡績民営企業6社が大陸から台湾に流入した。大陸の紡績資本を受け入れるために、台湾政府は1949年に「台湾省紡績業発展に関する奨励方法」を発表し、資金面、金融面での特別優遇を実施した。1950年代中頃から60年代初めまでの間に民営紡績業の紡錘数は42万錘となり、これにより島内での紡績製品の自給自足が実現した。
1960年代中期から70年代初頭まで、「投資奨励政策」の実行や投資環境の改善によって、民間企業は積極的に外資との協力関係を築き、各分野で成長を遂げた。政府の奨励政策によって民間企業は金融業にも進出したが、その代表的存在が華僑銀行であり、資産総額は1.7億元であった。
1954年の政府系公営企業の数は52社、全体の3.1%であり、民間中小企業は1649社で、企業総数の96.9%を占めていた。零細企業を含めて計算すると、中小企業の数は約4万社であった。1980年代になると、民間企業の生産高は全工業生産高の83.5%を占め、製造業、サービス業、商業、工鉱業、建築業、運送業、通信業などの様々な業種、分野に参入を果たしていた。現在、台湾には90万社余りの企業が存在するが、100社程度の公営企業を除き、民間中小企業は企業総数の99.9%を占めている。
図7.台湾の工業生産高における公営企業と民間企業の占有率の推移

(単位:%)
出典)肖新煌編『変遷中台湾社会の中産階級』1989年版より作成
台湾における中小企業の大量生成には、台湾の文化、風土及び戦後の国民党政府の政策が大きな影響を及ぼしていると考えられる。第一に、東アジア社会を規定する儒教の質素、勤勉、向上心などの徳目を基礎とした「鳳凰の尾になるより鳥の頭になれ」という普遍的創業精神(ベンチャー・スピリット)があることで、活力ある、自立した中小企業主が数多く生み出された。第二に、1950年代、60年代の輸入代替政策、輸出奨励政策が中小企業にとっての市場と競争の空間を拡大し、新規参入を促した。第三に、台湾の工業分散化政策が都会周辺や農村の郷、鎮に分散していた農村労働力及び女性労働力の活用を促し、中小企業の農村への進出に便宜をはかった。第四に、政府の中小企業奨励策、例えば、従業員30人未満の中小企業に対する労働組合設立の免除や一部税金の免除などが中小企業の発展を手助けした。
台湾の約90万社にものぼる中小企業にはそれぞれ約90万人の社長がおり(一社一社長として計算すると)、大都会と農村との中間地域である中小都会、郷、鎮には中小企業主を中心とする中産階級が誕生し、成長を続けてきた。これらの中小企業主の家族も含めれば、約30万世帯、270万人規模の中産階級層が形成されたと推測される。
図8.台湾の職業別就業人口

(単位:万人)
出典)台湾行政院主計処『人口資源統計報』各年度より作成
3.現代工業の発展と所得の上昇による都市中産階級の形成と発展
1949年、国民党政権は台湾に撤退したが、その際に大陸での官僚機構を日本統治時代の植民地統治機構に接合したことにより、中央行政機構、地方行政機構、国営・公営機構、公営事業機構、国民党などの政党関連組織、そして軍事部門などで構成される政府機構の規模は一気に膨らんでしまった。台湾の社会学者徐正光は、「1950年代~60年代の台湾に中産階級が存在するとするならば、公共部門に勤める中・高級の公務員がその主体となっている」と述べている(徐正光「中産階級興起的政治経済学」1989年)。
1950年代、国民党政府は輸出指向型の工業化を推進するために資本蓄積に関わる政策を数多く策定したが、これらの政策を実施に移すことによって官僚機構の経済、建設部門が拡張された。その理由は、台湾島内の企業は一般的に規模が小さく、研究開発部門が貧弱で研究費用も不足していたため、政府自身が研究開発に責任を負わなければならなかったからである。例えば、国家科学委員会の下には数理、化学、物理、生物、工程などの五大研究センターや精密器械センター、新竹科学工業園区が設置されていた。経済省の下には工業技術研究院、通信工業促進会、食品工業研究センター、金属工業発展センターなど18の研究機関が設立され、国防省の下には中山科学研究院、航空工業発展センターなどが、交通省の下には交通研究所、電信研究所などの研究機関が設置された。これらの研究機関は大量の専門技術者、研究者を受け入れ、民間部門向けの人材を養成することで、台湾の工業科学技術の進展を促進したが、同時に科学者、技術者を中心とした中産階級の形成を促進するという役割も果たした。
1987年現在、台湾における国営事業法人は26社、国有投資事業法人は42社、台湾省の省営事業法人は33社存在する。「中央投資公司」を主体とする持株会社やその持株会社のコントロール下にある国民党系の事業法人、その他各直轄市・県・市が経営する事業法人となると、その数は数え切れない。これらの国営事業は、台湾の金融業、郵政などの民生部門、重化学工業などの基礎産業を独占している。26社の国営事業法人と33社の省営事業法人だけで資産総額は5兆元に達し、その年間総売上げは8,000億元で台湾のGDPの40%を占めている。
政府関連機構に所属する人員の数は、国営事業法人が約20万人、省営事業法人が約10万人、行政部門が約30万人、軍人が約40万人であり、その他の部門の人数を入れると、200万人を超える。台湾における中産階級の実態を大雑把に見ていけば、その半数は政府関連機構に関係し、残りの半分は民間の各分野に分散していると推定される。
4.教育の普及、対外開放、海外留学経験者の帰国による中産階級の増加
台湾の教育水準は戦前から高かった。日本統治時代には台湾住民に対して日本語が強要され、日中戦争期に入ると皇民化教育が実施された。1943年には6年制の義務教育が導入され、1944年には就学率は71.3%となり、1945年には日本語普及率が71%に達した。
戦後、台湾政府は教育の普及と徹底を図り、重要な国策の一つに位置づけることでその更なる充実と成果を収めた。初等教育での児童数は、1952年には277万4,000人であったが、1965年には567万9,000人と2倍以上に増加した。同じ時期、中等教育での学生数は56万4,000人から155万人と約5倍に、高等教育では8万6,000人から23万8,000人と約8倍に、それぞれ増加している。学齢児童の就学率は1965年には97%に達している。
表5.台湾における教育水準別の人口構成
|
年次 |
6歳以上の人口 |
|||||||||||
|
小計 |
高等教育 |
中等教育 |
初等教育 |
その他 |
非識字者 |
|||||||
|
人数 |
% |
人数 |
% |
人数 |
% |
人数 |
% |
人数 |
% |
人数 |
% |
|
|
1952 |
638.4 |
100 |
8.6 |
1.4 |
56.4 |
8.8 |
277.4 |
43.5 |
27.0 |
4.2 |
269.0 |
42.1 |
|
1960 |
848.7 |
100 |
11.6 |
1.7 |
67.2 |
9.6 |
328.5 |
46.9 |
27.5 |
3.9 |
265.5 |
37.9 |
|
1970 |
1239.3 |
100 |
46.3 |
3.7 |
327.7 |
26.5 |
641.8 |
51.8 |
41.3 |
3.3 |
182.2 |
14.7 |
|
1980 |
1545.0 |
100 |
109.8 |
7.1 |
569.5 |
36.9 |
668.4 |
43.3 |
38.1 |
2.4 |
159.2 |
10.3 |
|
1990 |
1840.0 |
100 |
199.2 |
10.8 |
847.9 |
46.1 |
646.4 |
35.1 |
22.1 |
1.2 |
124.4 |
6.8 |
(単位:万人)
出典)台湾内政省『人口統計月報』より作成
学校数の推移で見てみても、小学校は1958年に1,663校であったのが、1965年には2,107校、1994年には3,784校に増加し、大学は21校から41校に増加している。
教育以外に目を転じてみても、経済発展に不可欠な技術水準や職能レベルが向上している。これは企業内外の職業訓練や職業学校の拡充を通じて、または海外からの技術援助を受けることによって実現している。その結果、識字率は1952年の58%から1965年の76.9%にまで向上した。
台湾島内の人材不足を解消するために、政府は三つの海外流出人材獲得政策を実施した。一つ目は、政策上の規制緩和であり、二重国籍を持つ科学者・技術者たちの帰国を奨励し、重要な科学研究プロジェクトのリーダーに任命する、二つ目は、仕事のし易い環境や生活面での優遇を約束する、三つ目は、海外の科学者・技術者に関するデータを整備し、人材交流と国際的な技術協力を強化するというものであった。
1950年から1996年の間に、台湾から海外に派遣される留学生の数は年間216人から4,500人に増加した。留学を終えた留学生に対して、政府は帰国費用を出し、創業基金を提供するなど、彼等の帰国を積極的に奨励している。その結果、多くの留学生、海外での成功者、国際的学者、そして技術者など優秀な人材が台湾に戻ってきた。新竹科学工業園のケースを例にとると、1983年の生産高はわずか30億元であったのが、10年後の1993年には1,290億元と43倍に増加した。海外から帰国した留学生、研究者の数は約2,600人であり、彼等は82社の企業を創業した。その数は科学工業園内の企業の約40%を占めている。
表6.戦後台湾の学校数の推移
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小学校 |
中学校 |
高 校 職業学校 |
師範などの専門学校 |
大 学 |
合 計 |
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1958年 |
1663 |
208 |
119 |
- |
21 |
2011 (在校生103万人) |
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1960年 |
1757 |
226 |
119 |
- |
22 |
2124 |
|
1961年 |
1843 |
244 |
119 |
1 |
27 |
2234 |
|
1962年 |
1932 |
280 |
121 |
2 |
30 |
2365 |
|
1963年 |
1995 |
320 |
119 |
3 |
33 |
2470 |
|
1964年 |
2067 |
361 |
122 |
3 |
35 |
2488 |
|
1965年 |
2107 |
396 |
128 |
5 |
41 |
2677 |
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1994年 |
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3784 (在校生470万人) |
(単位:校)
出典)『中華民国教育統計』1965年版、『解讀台湾』九洲図書出版社2000年より作成
第五章台湾民主化のプロセス
1980年代に始まった台湾の民主化は、台湾政治史の重要なターニングポイントである。近年、学界でもこの現象に注目が集まっており、台湾の民主化に関する様々な解釈が存在するが、中でも最も有力なのが中産階級の勃興が台湾の政治改革の原動力になったという説である。台湾の中産階級は社会の安定を重視すると同時に、民主化志向も強い。彼等は緩やかで平和的な社会改革を望みながら、権威主義体制下での様々な政治的制限の撤廃を要求し、台湾における民主化を推し進めてきた。
台湾の胡佛教授は1986年に台湾全島の有権者を対象にアンケート調査を実施した(サンプル数1,430人)。この調査では職業が25種類に分類されているが、そのうちの公務員、自由職業者(弁護士、医者、会計士など)、技師、自営業者、大学・専門学校の教員、中・小学校の教員、そして事務職員を中産階級に分類すると、その比率は約31%になる。この数字は台湾の中産階級に関する他の研究データのそれともほぼ合致している。
このアンケート結果を分析していくと、台湾の中産階級と民主化との関係について下記のような特徴を見出すことが出来る。
1)中産階級の民主化志向は他の階級より高い。ただし、過激な行動は支持せず、平和的手段による社会改革を望んでいる。
2)省籍によって台湾の中産階級は二種類に分類される。一つは、「内省人」の中産階級であり、台湾の中産階級全体の約75%を占める。この人々は「党外勢力」(反対勢力)を主に支持しており、民主化圧力の主たる源泉となった。もう一つは、「外省人」の中産階級である。彼等は主に国民党を支持しているが、彼等の民主化志向及びその理念が国民党内の改革にも多大な影響を及ぼし、それが権威主義的政権の民主化を促す「引力」になったと考えられている。
「外省人」の中産階級は台湾中産階級全体の約25%を占めているが、彼等の多くは政府の中・上層や企業のトップ、大学などの研究機関に属する人々であり、その社会的影響力は重大である。各種選挙における国民党の得票数の約7割は労働者・農民票であり、この事実を以って労働者・農民の動向が国民党の政治に多大な影響を及ぼしていると判断してしまいがちであるが、彼等の大多数は国民党の地方派閥や党組織によって動員されており、賄賂などの不正手段(黒金政治)によって投票行動が左右される傾向が強い。そのため、一般には無政見の有権者だと見做されている。それに対して、自らの政見を持ち、国際的な情報にも通じた外省人の中産階級は、数は少ないながらも、国民党政権の政策に大きな影響を及ぼしている。国民党も外省人中産階級からの支持を維持するために、常に彼等の政治的傾向や要求を配慮しながら政策を調整している。この外省人中産階級という国民党政権内部の民主化を促進する「引力」の存在を無視することは出来ない。
第二次世界大戦後の工業の高度成長期に台湾の労働者階級と中産階級の数が急速に増加している。1960年代初期には二つの階級は数量的に農民階級を上回り、台湾社会の中心的階級となった。1970年代に入ると、中華人民共和国の国連加盟や中米国交回復などの国際的事件によって、国民党政権の「中国唯一の合法政府」という神話が崩れ、中産階級の政治的覚醒が始まった。中産階級、特に中産階級上層による民主化要求は、台湾を取り巻く国際環境が悪化する中で、より一層強まっていった。雑誌『大学』や『台湾社会力の分析』などの出版物は、この時期の台湾中産階級の心の声を代弁するものであった。
1970年代の民主化運動は、中小企業主、大企業の高級管理職、政府の上級公務員、軍の高級将校などを中心とする中産階級上層から発したものだと言われている。彼等は政府の保護をさほど必要としない人々であり、輸出主導の工業化が進んだ時代に着実にその地位を高め、自信を深めていった。しかし、ひとたび台湾を取り巻く国際環境が悪化すると、自分たちが最初の被害者になるのではないかという不安に襲われた。なぜなら、彼等は大資本家たちとは違って、容易に財産を海外に移転することなどできなかったからである。それ故に、島内の政治改革に対する関心は資本家階級よりも中産階級のほうが高かった。
「動員戡乱」(戒厳令)体制下では中産階級の政治参加は制限されていたが、時間が経つにつれ、国民党政権のコントロール下にあったメディアは中産階級を説得し、ひきつける力を失っていった。このような状況の変化の中で、教育レベルが高く、海外情報にもいち早く接することが出来る中産階級上層は、台湾の政治体制に対する不満や革新への要求を強めていった。蒋経国の国民党政権はこの変化に気付いており、各職業、産業、協会をコントロールしてきた党組織の硬直化と機能の鈍化によって中産階級の統合が困難となり、彼等に譲歩せざるを得ない状況になりつつあることを敏感に感じ取っていた。県・市レベルの国民党地方勢力のネットワークにもまた、以前のような中産階級を引きとめておく力はなかった。中産階級上層の間では自主性が強く、横断的協力を可能とするような組織が次々と生れていた。新しく芽生えた団体意識や政治改革の波は、二代目の国民党政権黙認の下で発展、成長をとげ、大きな言論空間を獲得していった。時を同じくして、蒋経国政権は「民主」、「改革」というイメージを自らに付与するために、中央民意代表の補選や地方長官選挙の拡大、そして国民党の本土化などの改革を実行していった。
1970年代中期の地方選挙を境に、台湾政治に「党外勢力」(反対勢力)が台頭してくることとなるが、そのリーダーたちの大部分は中産階級の出身であった。党外勢力は国会の全面改選、「報禁」・「党禁」の解除、政治的特権の撤廃、人権の保障、外交的苦境の打開などを政治改革の主要なテーマに掲げ、中央民意代表の補選などを利用しながら台湾全土で「党外」運動を展開していった。
国民党の経済政策の成功や中国共産党の脅威などもあって、1970年代頃までは中産階級の大多数は国民党体制に従属したままであった。国民党政権による民主化運動への弾圧も依然行われていた。しかし一方で、この時期になると民意や世論を国民党がコントロールすることは実質不可能になっていた。民営新聞は世論の圧力によって国民党の「党意」に反する記事を載せざるを得なくなっていたし、「美麗島」裁判も国民党が望むような結果にはならなかった。1970年代後半の「中壢事件」、「高雄事件」はいずれも選挙を巡る党外勢力と国民党との争いから発したものであったが、この対立は環境保護署の設置や「国安法」、「集遊法」、「人団法」などの新法をもたらし、国民党政権が民主化運動に譲歩するという形で終結している。
1980年代に入ると、台湾の民主化運動は政党設立の段階に入った。「党外の政治圧力」が増したことで国民党の政治独占状態が崩れ、政治競争が促された。その結果、いわゆる「自力救済運動」が発展し、多くの市民団体が設立された。1986年9月27日には台湾初の野党である民主進歩党(民進党)が設立され、1987年7月15日、38年間続いた戒厳令が解除された。1996年の総統公選の実現と2000年総統選挙での野党民進党党首・陳水偏の当選は、台湾民主化の進展と成功のシンボルだと言える。
1.「台湾の春」― 社会的・政治的関心の高まり
台湾民衆が国民党独裁政権下での沈黙と忍耐を打破し、社会全体で政治への関心を示し始めたのは、1970年代初めに起こった「保釣運動」においてであった。
6.3平方キロメートルの釣魚島(日本名は尖閣諸島)は台湾島の東北に位置し、8つの小さな島からなる。台湾の漁民は古くからこの島を利用して漁業を営んでいたが、戦後の1971年6月、アメリカは沖縄を日本に返還する際に、釣魚島も日本に引き渡してしまった。その後、島の近海に石油が埋蔵されていることが確認されたため、日本は釣魚島の開発を宣言したが、この行為は世界中の華人の猛烈な反発を引き起こした。中国外務省は声明を発表し、釣魚島に関する米日間の取り決めは無効であると宣言した。台湾政府も声明を発表して釣魚島が中国の領土であることを指摘、米政府は問題解決のための措置を取るべきだと主張した。台湾では高校生らを中心に「釣魚島防衛委員会」という団体が組織され、街頭デモやアメリカ大使館に抗議文を手渡すなどの抗議行動が行われた。
「保釣運動」は短期間のうちに台湾全島を席巻したが、この運動を契機に台湾の民主化を求める動きが広がりを見せ始めた。台湾の知識人、学者はこの時期を中国語で「鳴放時期」と表現し、あるいは「台湾の春」と呼んでいる。この頃に頻繁に議論されたテーマは、政治参加の権利、言論の自由の追求、メディア統治批判、厳戒令の解除、人権の保障などであった。
「保釣運動」において、世論形成などに重要な役割を果たしていたのが『大学』という雑誌であったが、この雑誌はその後の民主化への動きにおいても、先導的役割を担うこととなった。1971年10月発行の『大学』46期に、楊国枢、張俊宏、陳鼓応、許良信、丘宏達、孫震などの青年15人連名による論文「国是諍言」が発表され、そこで初めて中央民意代表の全面改選問題が提起された。その後、民主化への機運が学生や若手インテリの間で広まったが、その動きは『大学』の呼びかけが大学生らの共感を呼び、その共感が社会全体に広まるという順路を辿った。台湾の最高学府である台湾大学では、1971年11月15日、11月25日、12月7日の3回にわたって政治問題に関する座談会が行われ、「言論の自由が台大にあるか」、「民主的生活が台大にあるか」というテーマを掲げて、大学における言論の自由や出版の自由の問題を討議し、国民党による文化統制や特務監視、管制制度などを厳しく批判した。3回目の座談会では、「中央民意代表を全面改選すべきか」をテーマとし、すでに法的効力を失った「三大民意機構」(国民代表大会・立法院・監察院)の解散とその全面的改組、新しい中央民意代表の選出など、「全面的政治改革」要求を打ち出した。
1972年1月、雑誌『大学』は楊国枢、陳少廷、張俊宏、許信良など18名の若手学者や政治評論家らによる「国是九論」と「学生運動を開放せよ」という二つの論文を掲載し、社会に衝撃を与えた。「国是九論」は、1、基本的人権、2、人事制度、3、生存外交、4、経済発展の方向性、5、農業と農民、6、社会福祉、7、教育革新、8、地方政治、9、青年と政治、などの9つのテーマについて論じたものであったが、この論稿は、新時代を担う若手知識人と青年学生の代表が、20年以上に亘って台湾を統治してきた国民党政権を全面的かつ系統的に批判したものであり、革新のための具体的な提言も含まれていた。
この動きに対して国民党政府は、常とは異なる対応を行った。蒋経国は秘書の張寶樹を派遣し、張紹文の仲介で陳鼓応、王暁波らとの座談会を行い、互いの意志疎通を図った。蒋経国は「救国団主任」の肩書きで若手学者・学生リーダーらと面会し、「青年はもっと議論し、国家の大事に関心を持ってほしい」と彼等の行動を容認する姿勢を示した。
若手学者・学生たちの動きを国民党政権が容認したことは、多くの人々にとって予想外の出来事であった。海外のある学者は、蒋経国を「偉大な政治家」と呼び、「蒋経国は台湾の政治に新しい光明と希望をもたらした」と評価している。ただし、蒋経国の政治信条は、「民主主義は手段であって目的ではない」というものであり、ひとたび民主化の動きが制御不能な状態に陥ったとみるや、いち早く事態の収拾に乗り出した。
1972年4月、国民党の中央機関紙『中央日報』は、六日連続で「一小市民の心の声」と題する長文を連載し、民主化運動を厳しく批判した。1973年2月17日、台湾大学の教員陳鼓応、王暁波と学生銭永祥、芦正邦が逮捕された。彼等の逮捕容疑は「民主主義討論会を召集し」、「中共のための宣伝を行った」というものであった。
1975年8月、張俊宏総編集長、黄信介発行人、康寧祥社長、姚嘉文法律顧問をメンバーとする雑誌『台湾政論』が発行された。この雑誌の発行はいわゆる「第二次社会改革」が最高潮に達したことを示す事件であった。この時期の民主化運動が発展を遂げた背景には、1975年の蒋介石病死や南ベトナム・サイゴン政府崩壊、その他に台湾の堅実なパートナーであったフィリピン、タイと大陸中国との外交関係成立などがあった。この時期は国民党政権にとって、内政と外交両面に赤信号が灯された時期であった。
『台湾政論』は国民党を厳しく批判した。『台湾政論』のメンバーの大半は台湾籍であるため、観念的には地方主義に偏っており、その主な主張は台湾省籍を持つ者の政治参加の機会や権力配分に関するアンバランスな現状を是正し、国会の改造や公平な選挙の実施を要求するというものであった。
第5期になると、『台湾政論』の論調は更にヒートアップした。そこでは政府を大胆に批判し、国民党政権の政治的タブーを打破する役割を果たした。姚嘉文「憲法、国策を批判してはいけないのか」、郭雨新「忘れられた社会―人道的に容認されない軍人家族村の問題」、陳鼓応「厳戒令を早く解除せよ」、「蒋院長の話を読む」などの論文は、それまで台湾の人々が口にすることさえ出来なかった問題を正面から論じていた。邱垂亮「二つの憧れ」は、台湾のおかれた情勢が非常に深刻なものであると主張し、台湾人民には二つの道しか残されていないと訴えた。第一の道は、台湾人民が武装蜂起し、国民党独裁政権を打ち倒すこと、第二の道は、台湾人民が一致団結し、祖国の平和統一を実現すること、であった。
武力による国民党政府打倒を公然と宣言することは、蒋経国の許容範囲を明らかに超えていた。そのため『台湾政論』は「国民を煽動し内乱を起す」という理由で発行禁止となり、総編集長らは懲役10年を言い渡された。同時に、陳明忠など14名の工商界の著名人が「共産党のスパイ」容疑で逮捕され、邱垂亮は台湾への入境禁止となった。
『台湾政論』が代表した「第三波の輿論緩和」の動きは、国民党政府に押さえこまれた。しかし、それから一年も経たないうちに、論壇や学会を舞台にいわゆる「郷土文学論争」がまき起こった。この論争は、ただ単に社会の弊害を暴露するというだけでなく、貧しい人々の不幸の元凶が社会制度にあることを暴露するという性質を持つものであった。社会を根底から揺るがせかねないこの動きもまた、国民党政府にとっては決して容認することの出来ないものであった。
8月17日、国民党機関誌『中央日報』の編集長である彭歌は、自ら文章を発表し、郷土文学の作家陳映真、王拓などを「毛沢東の台湾代理人」と呼び、台湾で転覆活動を行っていると非難、彼等は階級文学を販売することで社会的矛盾を拡大させ、共産党の統一戦線の道具となっていると厳しく批判した。「台湾の春」はここで一段落することとなった。
2.選挙の拡大と党外勢力の成長
蒋経国の総統就任後に彼が実施した「新政」の一つは、党外勢力の承認であった。台湾の野党は特定の条件下で生み出された政治勢力であり、20年余りの間は「活動はしていても組織はない」、「声はあれども力はない」といった状態であった。だが、1960年代末から70年代初めにかけての中央民意代表補選を契機に、党外勢力は新たな時代を迎えることとなり、国民党と闘うことができる重要な政治勢力へと成長していった。
国民党が台湾に入って初の選挙は、1950年7月の県・市議員選挙であったが、それ以降も県・市長選挙、省・市議員選挙、郷・鎮長選挙、郷・鎮民意代表選挙、村・里長選挙などの地方レベルの選挙が実施されていった。しかし、1950年代以降の20年間に実施された選挙は、公開原則に基づくものではなかった。その特徴は、第一に、不透明かつ不公平であるということ。立候補から告示・投票・監督に至るまで、選挙のすべてが国民党管理の下で行われる一方、国民党に対する監督はほとんど行われないというのが現実であった。第二に、不平等であるということ。国民党は自由選挙への民衆の参加は認めていたが、現実には非国民党候補者は個人の資格で選挙を闘わなければならず、宣伝などの選挙活動も個人で行うことと定められていた。こうなると国民党以外の政治勢力は国民党の強大な組織に太刀打ちすることができない。第三に、地方レベルの選挙しか実施していないということ。総統、省・市長、中央民意代表などの重要な選挙は実施せず、国民党の統治にあまり影響のない地方選挙を部分的に開放しているだけというのが実情であった。
中央民意代表の補欠選挙の実施は、1970年代の台湾政治における国民党政権の台湾民衆への最大の譲歩だと言える。民衆にとっての最大の不満は、大陸から来台した「三大中央民意機関の代表」(国民大会代表・立法委員・監察委員)が戒厳令の継続によって改選されることなく、「終身代表」、「万年代表」になっていたことであった。1960年代末以降、「万年代表」の多くがこの世を去り始めた。1969年、台湾政府は社会各層の不満を和らげるために、欠員となった国大代表15人、立法委員11人、監査委員2人の補欠選挙を実施することを決定した。この初めての国政レベル選挙において、党外勢力は十分な準備と認識を欠いていたために敗北した。選挙の結果、改選された28のポストすべてを国民党が獲得したが、これは中央民意代表補欠選で国民党が全勝を収めた唯一かつ最後の機会であった。
1972年以降に実施された補欠選挙では、国民党は、毎回一定の候補者を出している。1972年の2回目の中央民意代表補欠選挙では、国大代表に53人、立法委員に51人、監査委員に15人、省議員に73人の候補者を立てている。定員が一番多かったのは蒋経国が死亡する前に実施された補欠選挙で、その際には立法委員100名、国大代表84名、監査委員32名、省議員77名、台北市議員51名、高雄市議員42名、県・市長20名、そして20県市議会の議長、副議長、議員選挙に候補者を立てている。
このような「民軽官重」の選挙において、国民党は様々な手段を用いて常に70%前後の票を獲得している。当時の国会では、20名の野党国大代表と1,100余名の「万年国大代表」とが対立し、30名の野党立法委員と300名の「万年立法委員」とが対立し、10余名の野党監査委員と60余名の「万年監査委員」とが対立するという構図が常態化していたが、両者の力の差は歴然であり、野党代表が当選してきても、国民党代表が支配する政治局面を打破することは極めて困難な状況であった。
しかし、「保釣運動」と中央民意代表補欠選挙は、「党外人士」の決起と政治参加に絶好の機会を提供し、1970年代中期から「党外勢力」と呼ばれる反対勢力が登場してくることとなる。話題となった「自由中国」運動や「台湾政治論壇」運動においても、反対勢力が形成されており、それらは党外勢力の前身と言ってもよいものである。主な人物としては雷震、胡適の他、李万居、呉之連、高玉樹、李源桟、郭国基、郭雨新などの内省人がいた。
1970年代に入ってからの経済発展、社会の開放、文化水準の向上、対外交流の拡大などの影響で中・下層の市民も政治の現状に不満を感じ始め、政治参加への意欲が高まった。インテリ、実業家らを中心とする中産階級は民主化運動に熱中し、反対勢力に加わった。彼等は「全面選挙と三権分立」を主張し、台湾政府の厳戒と西側世界の開放、台湾の一党独裁制と西側世界の多党制、台湾の「党禁」と西側世界の結党の自由、台湾の「万年国代、終身委員」と西側世界の国会議員任期制、そして台湾の蒋氏独裁と西側世界の大統領制とを比較して台湾の恐怖政治を批判、西側世界で実現している基本的人権の保障を要求した。この時期の民主化運動を担った中心的人物としては、費希平、康寧祥、黄信介などがいた。彼等は新しい中央民意代表選挙に参加し、民主化勢力内部の世代交代を促進した。
1970年代以降の中央民意代表選挙は数多くの党外政治活動家を生み出し、新世代を中心とする第三期の党外勢力が台湾政治の表舞台に登場した。代表的人物は、許信良、江鵬堅、姚嘉文、施明徳、陳水扁、謝長廷、尤清、張俊雄、張俊宏、及び游錫坤、蘇貞昌、陳定南、芦修一などである。経済的には中産階級に属する彼等は、政治的にはリベラルであり、精神的には西洋文明崇拝者であった。そして学術的には高度な知識を有する専門家であった。この第三期党外勢力の登場によって、民主化勢力と国民党勢力との抗争は一層激しくなり、民主化を巡る両者の衝突が続々と発生した。
中壢事件
1977年11月19日は「五項地方選挙」(省議員、台北市議員、県・市長、県・市議員、郷・鎮長)の投票日であった。この時、桃園県長に立候補していたのは国民党司法行政部調査局の欧憲瑜と党外勢力の許信良であった。
桃園第213号投票所の監査主任で中壢国民小学校校長であった范姜新林は、77歳の老人鐘順玉とその妻で71歳の邱涂菊の目が不自由であったために、彼等の投票を手助けしたが、その際に国民党候補者に有利に働くよう投票を誘導していたのを党外勢力側の選挙監視員に目撃された。この一件で現場は紛糾し、午後になると事態はエスカレートした。怒った党外勢力支持者や大学生、その他群衆約1万人が地元警察署を取り囲み、パトカー8台と警察用オートバイ60台を燃やし、夜になって軍隊が出動するという騒動にまで発展した。翌日、当局は范姜新林を拘束し、処罰した。選挙は許信良が8万票を獲得して圧勝した。この事件は発生地が桃園県の中壢国民小学校であったため「中壢事件」と呼ばれた。
高雄事件(美麗島事件)
1979年11月末、雑誌『美麗島』は12月10日の世界人権宣言発表30周年記念日に記念大会とデモを行うことを決定した。党外勢力はこの人権活動を利用して基本的人権の保障を求め、国民党から政治的譲歩を引き出すことを目指していた。一方、国民党政府もこの機会を利用して党外勢力を鎮圧することを目論んでいた。大会前夜には早くも塀東、台南、高雄などで衝突が発生していた。
12月10日午後7時頃、人権記念大会参加者たちは施明徳指揮の下でデモを開始した。参加者たちは松明を揚げて「言論の自由を返せ」、「厳戒令を解除しろ」、「スパイ統治反対」、「暴力集団打倒」、「人民万歳」、「民主万歳」、「人権万歳」などのスローガンを叫び、デモ行進をしていたところ、警察・憲兵隊と衝突、衝突は武装闘争に発展して深夜まで続いた。軍・警察による鎮圧は凄惨を極め、その夜高雄は血に染められた。
この事件で『美麗島』関係者は約40人が負傷し、一般参加者の中からも数多くの負傷者が出た。政府側も183人が負傷し、うち重傷者は憲兵47人、警察官16人であった。事件から3日目の朝、軍隊、憲兵、警察が一斉出動し、事件に関与した党外勢力関係者を逮捕した。
1980年4月18日、軍事裁判所は「政府転覆罪」で施明徳に無期懲役、公民権剥奪を言い渡した。続いて黄信介、姚嘉文、張俊宏、林義雄、林弘宣、呂秀蓮、陳菊などの党外勢力関係者に懲役14年や12年の判決を言い渡した。また5月21日から26日までの間に、台湾地方裁判所は周平得、揚青直、王拓など33名に6年の有期刑を言い渡した。
軍事裁判所での審議と時を同じくして、「高雄事件」に関わる台湾を揺るがす二つの事件が発生した。一つめは、1980年2月28日に「高雄事件」の主犯とされた林義雄の59歳の母と親族らが殺害された事件である。この明白な政治的謀殺に対して警察当局は即時解決を約束したが、結局犯人は検挙されずに終わった。
二つめは、4月24日、施明徳の逃走を手伝けした台湾基督教長老会の総幹事・高俊明の逮捕である。高俊明は一介のキリスト教徒ではなく、1970年代に出された「台湾基督教長老教会の国是正声明」において初めて「台独(台湾独立)」を主張し、「台湾の将来は台湾1,700万住民が決める」と宣言した人物である。高俊明は有期刑7年を宣告され、共犯の許晴富、林文珍などの党外勢力関係者もそれぞれ2~7年の判決を言い渡された。
上述したような政治的事件が多発するなか行われた1977年の選挙で、党外勢力は勝利を収め、30%の得票を得た。党外勢力はこの選挙で県・市長ポスト20のうちの4つを獲得し、省議員は77のうちの21を、台北市議員は51のうち6つを獲得した。1978年11月18日、「党外人士選挙補助団」は「12項共同政見」を発表し、中央民意代表の全面改選、省・市長の直接公選、軍隊の国家化、新聞・雑誌の開放、党禁の開放、厳戒令の解除などを提起した。11月24日、「党外人士選挙補助団」は正式に発足し、康寧祥が主席、黄信介・余登発が総連絡人、施明徳が執行秘書兼スポークスマンに選出された。
この時期、注目すべきものの一つは、民主化に関する啓蒙書である。『温暖』(周清玉編)、『根下し』、『深耕』(共に許栄淑編)、『代議士』(蘇秋鎮編)、『鐘楼』、『蓬莱島』(共に黄天福編)、『80年代』(康寧祥編)、その他『前進世界』、『自由時代』、『民主時代』、『台湾広場』、『新潮流』、『先鋒時代』、『政治家』などの刊行物が多くの読者に歓迎された。
「高雄事件」などの政治的事件の発生は、民主化勢力による長期的抗争が継続していることを端的に示すものであり、その抗争が範囲、性質、程度いずれにおいても一層激しくなる切っ掛けとなる事件であった。一連の事件は台湾政治史において重要な意味を持ち、台湾政治が新しい階段に入ったことを示すものであった。これ以降、国民党と党外勢力との抗争は組織的抗争、政党抗争の様相を呈することとなる。
3.野党の結成
党外勢力の基本的戦略は、「エッジ・ボールを打つとラインまでぶつかる」という言葉に端的に表わされている。すなわち、卓球の「エッジ・ボール」(卓球台の縁・ラインぎりぎりに打ち込まれる球)のような返球(反撃)困難な行為、ファウルすれすれの反抗を繰り返すことで政治資本を少しずつ蓄積していく。そして絶えず国民党に譲歩を迫り、国民党の政治的地盤を徐々に縮小させ、最後には機会を捉えて自らの政党を立ち上げる。
具体例を挙げていけば、1980年代前半に行われた選挙の際の「受難者家族参選事件」や、1985年4月1日、無期懲役を言い渡された施明徳、林弘宣、白雅燦、黄華による絶食事件、5月3日、『薪火』発行人・耿栄水と党外編集作家連合会に対する警察の違法捜査に関する提訴、5月16日、14名の党外勢力所属議員の集団辞職、1986年5月10日、台北大飯店での党外勢力代表と国民党中央政策委員会副秘書長梁粛戎、蕭天賛、黄光平との論争(この一件は当時「驚天動地の歴史的論争会」と言われた)などである。その他には、1986年5月19日、厳戒令に抗議して党外勢力が台北龍山寺で軍・警察と丸1日対峙した事件、6月10日、国民党政府に逮捕された陳水扁、林正傑らを激励するために党外勢力が起こした「陳水扁、林正傑入獄送別運動」などがある。これら一連の政治運動によって台湾の新党設立に欠かせない政治環境と基盤とが徐々に整備されていった。
1986年5月1日、米国に滞在していた許信良はニューヨークで「台湾民主建党委員会」を発足させ、新党設立に向けた動きを開始した。穏健派として知られた康寧祥は、6月中旬に「党の組織化に関する五カ年計画」を提出した。7月3日、謝長廷らの「建党プロジェクト・チーム」が発足、党外勢力活動家との連絡を強化し、政党設立に関する協議を開始した。8月9日、党外勢力の実力者である康寧祥は台北で「建党促進説明会」を行い、そこで初めて政党設立の意志を表明した。8月15日、「憲法の実現と政党設立促進大会」が召集された。8月25日、謝長廷は雑誌『時代』誌上で初めて党名を「民主進歩党」することを提案した。8月30日、党外新潮流派は党設立に関する説明会を行った。9月19日、康寧祥、尤清、費希平、謝長廷、江鵬堅、張俊雄、游錫坤などの党外勢力の活動家たちが会合を持ち、その場で尤清、江鵬堅、謝長廷、邱義仁などを建党準備委員会のメンバーとして推薦、あわせて党設立に向けた具体的な活動を行っていくことを決定した。
1986年9月27日、130余名の党外勢力活動家が台北市園山飯店に集まった。この会議では当初は、党名、党の綱領、定款などを議論する予定であったが、午後になって参加者の一人であった朱高正が「善は急げ、今日この場で新党の設立を発表し、立候補者たちの『共同政見』を新党宣言とし、『12条主張』を党の政治綱領としたら如何でしょうか」と提案した。この提案に参加者全員が賛成し、全会一致で可決された。
この会議で費希平、尤清、謝長廷など8人(派閥のバランスを取るために後に18人追加)が党指導部メンバーに選出された。指導部の下には政策、組織、協調、宣伝、行政、財政の6部門が設けられ、党務を担当することとされた。1986年11月10日、台湾初の野党である民主進歩党(民進党)は台北で「第1回全国代表大会」を開いた。この大会において、費希平、蘇貞昌、康寧祥、游錫坤、江鵬堅、周滄淵、尤清、洪洪奇昌、謝長廷、潘立夫、呉乃仁の11名が中央常務委員に選ばれ、陳菊、邱義仁、呉仲灵、郭吉仁、王義雄の5人が中央常務審議委員に選ばれた。
民進党の劇的な結党に対して、国民党は9月30日に施啓揚法務部長名義で「現在、台湾で新党が設立されることは好ましくない。違反者に対しては法に則って処罰を行う」との声明を出したが、事実上黙認した。10月7日、蒋経国は民進党結党について、「人民大衆に集会と結社に関する権利があることを我々は理解しているが、彼等は憲法を認め、憲法に基づいた国家体制を認めなければならない。新政党は反共でなければならず、同時に如何なる台湾独立運動もしてはならない。以上の基準を満たしているならば、我々は新党の設立に反対しない」と明言した。
1986年3月、国民党第十二回三中全会終了後、国民党内部の「政治改革」が始まった。これ以降、台湾社会に「結党ブーム」が起こり、国民党第十三回全会の直前には20以上の政党や政治団体が設立されていた。野党の設立や反対勢力の伸張によって、野党と与党・国民党との政治抗争は合法的かつオープンに行われるようになり、国民党政権はこれまでにない圧力と挑戦を真正面から受けとめることとなった。同時に、厳戒令と党禁の解除によって抑えつけられてきた各種の矛盾が急速に社会の表面に現われ、長年抑圧されてきた各種の圧力団体・組織も続々と決起した。労働者、農民、知識人、学生、退役軍人などが自発的に「自力救済運動」を起し、自らの地位の向上や権利を求めて街頭でデモを行った。1987年7月から1988年7月までの一年間に行われたデモ、陳情活動の総数は1,957件に達した。
4.「丙寅変法」、国民党内の革新
1985年春、台湾で「十信案」事件が発生した。その内容は台北第十信用合作社が貸し出した150億元のうち70億元が不良債権化したというもので、最終的な損失額は80億元にのぼった。この事件は国民党政府のみならず国民にも大きな衝撃を与えた。台北第十信用合作社理事長の蔡辰洲は国民党上層部にも太いパイプを持つ人物であったが、事件は経済犯罪の側面を有するとともに、闇金融も深く絡むものとなっていた。6月7日、台湾高等法院は蔡辰洲に懲役15年、他の被告にそれぞれ懲役4年、懲役7カ月の判決を言い渡した。「十信案」事件は国民党の政治的、社会的基盤に大きな打撃を与えたが、その反面、蒋経国に国民党内の改革を早めることを決意させる重大な契機の一つともなった。
蒋経国が政治改革に乗り出した背景には、国民党内の腐敗の他にも幾つかの理由があると考えられる。第一に、改革開放政策が大陸中国を日々進歩させ、その成功によって国際的な声望が高まっていたということである。対して国民党政府は、今や「独裁」の代名詞となってしまっており、今後も政権を維持していくには民主的な改革の実施が急務となっていた。第二に、それまで東アジア諸国の独裁政権を支持してきたアメリカの方針転換である。フィリピンと韓国の独裁政権は既に崩壊しており、ここで台湾に何の変化もなければ、アメリカは国民党に代えて野党を政権の座につけるべく画策するに違いないという危惧を蒋経国は抱いていた。第三に、野党の成長である。野党勢力は対外的には米国の支持を得ており、対内的にも中産階級を中心に有権者の約30%という安定した支持を獲得していた。野党を武力で抑え込むことは、もはや不可能であった。
蒋経国は台湾の部分的民主化と政治改革の実施という賢明な道を選択した。1985年8月16日、蒋経国はアメリカの雑誌『タイム』の香港支局長との会談で、初めて後継者問題に言及し、「今後の台湾の元首について、私は蒋一族の中から後継者を出すなどということを考えたことはない」と述べた。
1986年3月、蒋経国が主催した国民党十二回三中全会が開幕し、「党を革新し、台湾の全面的革新を促進する」という内容の決議が採択された。この大会で新しい中央指導部が選出され、李煥以下、内政部長呉伯雄、法務部長施啓揚、国家科技委員会主任委員陳覆安、邱創煥などの革新派が中央常務委員会に加わった。
革新派を中心に12名の中央常務委員からなる「革新プロジェクトチーム」は、「中央民意代表」とその「機構」の改革問題、「地方自治」、「省、市長選挙の開放」、「国家安全」に関する法令改革、「厳戒令」の解除問題、「民間社会の組織制度問題」、「政党の設立」問題、「社会治安強化の問題」、「党務強化の問題」などの革新的な課題について、具体的な検討を開始した。
中央民意代表の終身制や厳戒令、党禁を堅持することは、国民党の統治の大原則であり、従来議論することさえも許されてこなかったが、国民党自らがそれらの改革に着手した。これは国民党が台湾民衆に対して、それまでにない大きな譲歩をしたということであり、蒋経国の改革への決意の表われであった。台湾言論界では、1986年春の国民党十二回三中全会を「丙寅変法」と呼び、蒋経国の改革を記憶にとどめている。
5.厳戒令の解除
1986年10月7日、蒋経国はアメリカのとある新聞社の理事長と接見した際、間もなく戒厳令を解除し、それに代わる「国家安全法」を制定すると述べた。翌8日、蒋経国は党内の最高会議である中常会において政治革新を可及的速やかに実施すると表明した。10月10日、蒋経国は慣例の「双十節」(国民党制定の建国記念日)記念大会で、有名な「歴史的使命」演説を行い、厳戒令の解除を示唆した。10月15日の国民党中央常務委員会では、「国家安全法」制定を以って戒厳令を解除すること、そして現行の「人民団体組織法」と「公職選挙罷免法」の修正によって政党結成を認める「革新プロジェクトチーム」の提案が承認された。
だが、「国家安全法」は台湾憲法(中華民国憲法)を基礎とするものであり、集会、結社、出入国などへの制限は相変わらず存在していた。野党民進党は、「国家安全法」は人民の権利を制限するものであると主張し、立法委員会において国民党と激しく対立した。1987年5月19日と6月12日には街頭デモを行ったが、その際には警察隊との衝突が見られた。結局、6月16日に国会で「国家安全法」が可決され、7月1日に公布された。
1987年7月15日の深夜零時、世界最長の38年間続いた厳戒令が解除された。台湾政界はこの戒厳令の解除を、国民党による政治改革のクライマックスだと賛美した。
6.「憲政改革」と総統直接選挙
1990年から1994年の間の、いわゆる李登輝時代、国民党は「憲政改革」を推進した。これは国民党による台湾統治40余年を通じ、最も重大な政治的出来事の一つに数えられる。「憲政改革」は台湾における従来の政治構造を打破し、政党政治に必要な環境を整備しただけでなく、国民党内の権力構造を大きく変えた。
「憲政改革」の背景には、「憲政改革」以前に導入された「政治革新」政策と旧体制下の政策との間の矛盾の発生と、その矛盾による深刻な憲政危機の招来があったと考えられる。国民党政権は台湾の国際的孤立化などの外部環境の変化と、民衆の革新要求という二重の圧力によって、厳戒令解除、党禁の開放、中央民意機構の改革、地方自治の法制化などの「政治革新」を実行することを決意した。国民党政権は一連の改革によって内部矛盾を解消し、民心を獲得することで、政権の維持と国際社会の歓心を得ることを狙っていた。
1990年6月28日から7月4日まで、李登輝主催の「国是会議」(反対勢力、無所属代表、海外「異議人士(反対派)」及び著名人が一同に会する台湾初の試み)が行われ、「憲政改革」の重要課題である「臨時条例の廃除」、「国会の全面改選」、「総統の民選」、「省・市長の民選」などについて議論が交わされた。この会議の開催で「原則性のある共同認識」が形成された。7月11日の国民党中常会において、李登輝指名による「憲政改革策定プロジェクトチーム」が発足し、副総統李元族が座長に、行政院長郝柏村、司法院長林洋港、総統府秘書長将彦士がそれぞれ副座長に任命された。「憲政改革策定プロジェクトチーム」は李登輝主導の下で、下記の三段階に亘る「憲政改革」を推進した。
第一段階は1991年の「憲政改革のプロセス」の確立である。1991年4月8日から22日まで行われた国民大会第二次臨時会議において、「憲法増改条例」第1条から第10条までの修正案が可決された。この段階での「憲政改革」の内容は、中央民意代表の選出方法と任期、新国民大会の機能、「反乱鎮定動員時期臨時条例」廃止後の総統の緊急処理権行使などに関する改革であった。憲法改正によって中央民意代表の90%以上が台湾地区から選出されることとなった。4月30日には、李登輝が「動員反乱時期」の終結と「反乱鎮定動員時期臨時条例」廃止を宣言し、「反乱体制」から「憲政体制」に移行したことを宣言した。12月末には「万年国会代表」が全員引退し、新しい国民大会代表が選出された。
第二段階は1992年に実施された「実質的憲政改革」である。1992年3月20日から3月30日まで開催された新国民大会の第一次臨時会議では、国民党十三回三中全国会議で提案された「憲法増改条例」案が可決された。この憲政改革では台湾の中央政治体制にも若干の修正が加えられたが、その主な内容は以下の通りである。(1)総統選挙を国民大会での間接選挙から台湾地区全体を対象とする直接選挙にする、(2)総統の任期を6年から4年に短縮し、再選再任は1回のみとする、(3)国民大会の権限を拡大し、総統が指名した監察院、考試院の院長・副院長・委員、司法院の院長・副院長、および大法官に対する人事同意権を与える、(4)国民大会は少なくとも年1回召集され、代表の任期は4年とする、(5)監察院の国会機構所属を改め、準司法機構に変更する、(6)地方自治の制度化、省・市長の公選を実現する。
この「憲政改革」によって、旧憲法における「五権分立」構造(三権+二権、行政院・立法院・司法院+監察院・考試院)が崩れたが、総統の直接選挙や行政院長の権限に関する与野党の合意は得られなかった。同年12月9日には二回目の立法委員選挙が実施され、その結果、従来大陸出身者で占められてきた立法院の「台湾化」が実現し、それまでの国民党「一党独裁」から「二大政党」制への変化の兆しが見えてきた。
第三段階の「憲政改革」は1994年に行なわれた。1994年4月2日、国民党十四回中央委員会臨時会議が開催され、8項目の憲政改革原則が定められた。その主な内容は以下の通り。(1)第9代総統は「自由地区」の全員直接選挙によって選ばれること、(2)総統は国民大会と立法院の同意を得て、政府要員を任命すること、(3)国民大会に議長と副議長を設けること、(4)立法委員の任期を3年から4年に変更すること。
三段階に亘った李登輝時代の「憲政改革」は、要約すれば4つの改革によって構成されていると指摘することが出来る。それはすなわち、反乱鎮定動員時期の終結、反乱鎮定動員時期臨時条例の廃除、国会の全面改選、そして憲法改正である。
「憲政改革」は中華民国の政治体制を大きく改造するものであった。その意義は下記の三点にまとめることが出来る。
第一に、「反乱鎮定動員時期」終結によって、「叛乱団体」、「偽政府」と呼んできた大陸の中国政府を「大陸地区を支配する政治実体」と認め、互いの関係を「対等の政治団体」同士の関係へと認識を改めた。「憲法改正条例」については、「憲法改正は国家統一の必要から」とした項目が注目される。それは「中華民国」の管轄範囲を憲法の適用対象とした台湾地区(台湾島、澎湖諸島、金門島、馬祖島)及びこの地区で生活する2,100万住民に限定することを意味していた。蒋介石時代に宣言された「大陸反攻」は事実上放棄された。
第二に、国会の全面改選によって、国会の構成が変化した。従来の大陸出身者を主体とした国会は、台湾人が主体の反対党代表が急速に増加したことによって、その出身構成と与野党の勢力対比が変化した。1972年に実施された民意代表補欠選挙以降、中央民意代表機構における台湾出身者の増加が始まったが、その時点では台湾出身者の占める割合はまだ小さかった。1988年の台湾出身者の数は、国民代表大会では国大代表935人中101人で、全体に占める割合はわずか10.8%、立法院では立法委員312人中78人で、全体の約25%に過ぎなかった。1989年の立法委員補欠選挙直後でも、台湾出身の立法委員の数は、立法委員総数の30%しかいなかったが、1990年から1994年の間に実施された「憲政改革」によって国民大会と立法院の全面改選が実現し、改選後の国民大会、立法院の代表構成には根本的な変化が起こった。403人の国大代表のうち台湾出身者は324人で国大代表総数の約80.39%を占め、対して、台湾以外の出身者(外省人)は79人で全体の19.61%しかいなかった。161人の立法委員のうち台湾出身者は136人で委員総数の約84.4%、外省人は25人で15.6%であった。二つを合計すると、新しい国会の代表564人のうち、台湾出身者は81.5%を占めていた。こうして台湾の国会及び立法機関の台湾化が実現した。
第三に、憲法中の不適用条例の改正によって、中華民国憲法(1946年制定)の基本であった「分権」と「五権分治」のうちの「五権分治」、孫文の提唱した二大政治理念の一つである「五権分治」と、それに基づく政治体制が変更された。「憲政改革」の実施によって総統の権限が強化されたが、総統が台湾地区有権者の直接選挙で選出されるようになったことで、二つの大きな政治的効果がもたらされた。一つめは、直接選挙によって誕生した総統は理論的にも実際上においても台湾地区のみを代表する総統になってしまったということである。二つめは、その総統選挙で現われた直接的民意の増加によって、「五権分治」という政治体制が大きな打撃を受け、崩壊してしまったということである。
1994年に実施された第三段階の「憲政改革」において、総統の直接選挙が実現した。1996年には第1回目の総統直接選挙が実施され、台湾政治は大きな変動期に突入した。国民党政権はここにようやく台湾地区の有権者の認知を受け、台湾地区における合法的な政権となった。それは「中国」を代表する政権から、「台、澎、金、馬地区」のみを代表する政権へと変化したことをも意味していた。このことからも「憲政改革」の実施とその成功は、国民党政権の台湾化と民主化の結果だと結論付けることが出来る。
7.国民党政権の台湾化と台湾政治の多元化
民主化運動がもたらした結果として第一に注目すべきことは、国民党が台湾化したことである。それまでの国民党政権の権力構成は、大陸出身者が中心であったが、蒋経国政権からいわゆる「本土化」政策が進められ、台湾出身者の政治参加が可能になった。しかし、蒋介石時代に構築された権力構造は、李登輝時代まで基本的には変わっていなかった。李登輝時代になってからは、憲政改革の進行によって国民党政権の権力構成に根本的な変化が起こった。五権(立法・行政・司法・考試・監察)のうち監察院長だけは依然大陸出身者によって占められていたが、1993年以降は行政院、立法院、司法院、考試院の四院長は台湾出身者になった。行政院長となった連戦は台湾出身者初の行政院長であった。1993年8月の国民党第十四回全会では高級幹部の再編が行われ、李登輝は投票により国民党主席となり、新設の副主席には大陸出身者2名と台湾出身者2名がそれぞれ任命された。この時選出された中央常務委員31名のうち台湾出身者は20名、外省人は11名で、台湾出身者と外省人との立場は逆転していた。この傾向は他でも見られ、1993年末に行われた県・市長選挙では、当選した県・市長23名全員が台湾出身者であった。軍、警察の「国家化、非常化、中立化」政策の推進により、大陸出身の実力者たちの政治的影響力は急速に弱まっていった。李登輝は台湾出身の将校を積極的に登用し、外省人勢力を排徐した結果、軍、警察の高級幹部の台湾化が急速に進行した。
「憲政改革」後、台湾の政治のありかたも欧米化し、政党政治のそれへと移行していった。議会は政治の中心となり、中央民意代表、中でも特に立法委員の権力が拡大し、行政機関と立法機関との相互牽制関係も確立された。同時に司法機関の地位も向上し、独立審判機能が強化された。
新聞解禁、「言論の自由」の保障、そしてメディアの自由化によって台湾社会の公開性と透明性が高められた。その結果、政治勢力の多元化が進行し、「党禁」解除後には新政党が雨後の筍のように誕生した。統計によると、1994年9月に台湾内政部に登録をした政党の数は74であった。国民党はその中での第一党であり、100年の歴史と250万人の党員を有していた。しかし、1990年代に入ってからは、党内での権力争いや主義主張の違いによって、主流派と非主流派との対立が激化した。1993年8月の国民党十四回全会直前には、非主流派の一部が離党して「新党」を結成している。別の非主流派の一部は1994年3月に「新同盟会」という無党派政治団体(超党派の政治団体)を設立し、国民党主流派との闘争を続けた。
1997年までは台湾省長や高雄市長は国民党推薦者によって占められており、台湾省の県・市長ポスト21のうち国民党は13を保持し、郷・鎮長、村長の大半も握っていた。だが、国民党の政治的、経済的、社会的資源は次第に減少しつつあった。1990年代以降に実施された各種選挙での得票率と獲得ポスト数を見てみると、国民党の低落傾向は明白であった。1993年の県・市長選挙での国民党の得票率は47.3%となり、初めて50%を割り込んだ。1994年の県・市長選挙では得票率自体はさほど減少しなかったが、台北市長のポストを失い、省・市議員の数も140から91まで減らして台北市議会での主導権を失った。1994年に行われた省・市議会副議長選挙では、国民党支部が指名した候補者は全員落選した。
国民党のメディア支配も崩壊した。野党系の新聞・テレビが日増しに増加し、その中で最も影響力を持つ新聞は、国民党系の新聞と同等の競争力を持つようになっていた。
国民党中央も党内の反対勢力の挑戦を受けることとなった。林洋港、邱創煥、高育仁、呉伯雄などの地方実力者で形成される党内非主流派は、党指導部に対する挑戦を繰り返し行った。彼等は国民大会や立法院内で独自グループを形成して党中央に対抗し、党の政策決定と執行を牽制した。立法院で議案採決をする時、国民党は「実質上の少数」となってしまっていた。
1986年9月に設立された民進党は、党員7万人からスタートした。1989年の立法委員選挙及び県・市長選挙において、民進党はそれぞれ27.3%と38.4%の票を獲得した。1991年の2回目の国大代表選挙では23.9%、1992年の第二期立法委員選挙では31.1%の票を獲得し、1993年の県・市長選挙でも41%の票を確保した。1990年代初期、民進党は国民大会の20.3%、立法院の31.1%の議席を占有し、県市長ポストはその26%を持つようになっていた。民進党は台湾第二の政党として国民党と政権を争う台湾で最も実力のある野党へと成長した。当初民進党主席は、「遅くとも1999年には政権を獲得する」と宣言していた。民進党は有権者の支持を獲得し、勢力拡大を図るために、「台湾独立」の主張をある程度押さえ、台湾の財閥の支援やアメリカ、日本などからの支持を受けている。2000年の総統公選では民進党の陳水扁が当選し、初めて国民党以外の総統が誕生した。
一方、国民党非主流派から誕生した新党は、1993年8月に党設立を宣言し、1994年末までに5%の政党得票率を獲得して「重要な少数」というポジションを確立した。1994年末には党員数は約4万人に達している。新党の組織基盤は未だ脆弱で、彼らの持つ政治的、経済的、社会的資源も限られているが、国民党と民進党との間に存在している。1994年の省・市長及び省・市議員選挙では得票率は6.9%に達し、5%を越えて15の省・市議員ポストを獲得した。台北市議会では52の議席のうち11を占め、その勢力は台湾の南部地区、高雄市などに広がっている。
以上の3党以外の政党はまだ規模も小さく、地方に分散している。1994年の省・市長及び省・市議員選挙では、3党の得票率の合計は93.08%であり、他の政党や無党派の得票率の合計は7%にも達していなかった。この選挙では国民党、民進党がそれぞれ3つの省、市長ポストを獲得している。『中央日報』、『中国時報』などの台湾の新聞は、台湾の新しい政治体制について「国民党の独占時代は既に終結した。台湾は『両党対抗、三党競争』の新時代に入った」と評論した。
しかし、台湾の政党政治の完成度は未だ低いレベルに止まっている。先ず、三大政党の国家観には大きな相違がある。新党は、自らが正統の国民党であると主張し、中華民国の国名、国旗、国歌を遵守することを宣言している。また、民進党の「台独」に反対し、李登輝は「台独分子」であり、国民党は既に変質してしまったと非難している。1994年の台湾省・市長選挙では「中華民国を守ろう」、「台独反対」などのスローガンを掲げている。一方、国民党は台湾人2,100万人の「守護神」を自称し、依然「一つの中国」の看板を揚げているが、実際には「台湾での中華民国」、「中華民国自由地区」といった論調を打ち出し、台、澎、金、馬地区を対象とする憲法を制定するなど、「台独」行為を事実上黙認している。1993年、李登輝は「段階的に二つの中国へ」、「台湾人民の国家を作ろう」といった主張を公然と行った。民進党は発足当初から「台湾独立」を主張し、台、澎、金、馬地区を範囲とした「台湾共和国」を提案している。国民大会や立法院では国名、国歌、国旗の変更を主張し、国民党に対して「一つの中国」政策の放棄や「国統綱領」の廃除、国家統一会の解散などを要求している。民進党副主席の施明徳は、1994年の省・市長選挙の際には、金門島・馬祖島から軍を撤退させ、台湾本島・澎湖諸島だけで「台湾共和国」を作ることを主張している。
政党政治が機能する前提は、政党同士の競争を可能とする条件があらゆる政党に対等に付与されていることであるが、それには行政の中立性や軍隊の国家化、メディアの自由化などが必要となる。国民党は長期に亘って行政を代行し、党と行政の混同状態を黙認してきた。選挙では、国民党がコントロールする巨大な行政システムが選挙の応援部隊、集票マシーンとなり、「自強活動」(自立運動)という名目で公務員に賄賂を渡し、国民党に有利な選挙活動を行ってきた。国家の重要案件を処理する際も、台湾の行政部門は国民党の肩を持つ傾向が強い。「軍隊の国家化」については、国民党政権が育成してきた軍隊は、実質国民党の軍隊であった。国民党は様々な手段を用いて密かに軍内部に「秘密結社」を結成し、軍への影響力を保持しようとしているし、1994年の省・市長選挙では、国民党はメディアに対する独占的権力を容易には放棄しようとしない。多くのラジオ局・テレビ局は国民党にとっての重要な宣伝手段となっており、選挙の際には島内の3つのテレビ局やラジオ局が国民党候補者を後押しし、野党候補者のイメージダウンに手を貸すという現象は、野党は勿論、社会からも厳しく批判されている。このような事情があるため、台湾の選挙では暴力事件が絶えず、1994年の省・市長選挙の時だけで360件の暴力事件が発生した。その他にも、国民大会、立法院での殴り合いなどが頻繁に見られる。
第六章 台湾民主化に関する分析
1.世界最長の戒厳令:台湾民主化に不可欠な要素
筆者は第一章において、台湾に民主化をもたらした要因として、権威主義体制の形成、国民党の台湾撤退による財産・人材・文化の台湾への流入、アメリカの援助、日本植民地統治の遺産、伝統文化である儒教の影響などを指摘したが、それらを総合して考えてみるとき、台湾に民主化をもたらした最も核心的な要素となったのは、38年間継続した戒厳令であるのかもしれない。台湾民衆にとって、幸不幸は別にして、戒厳令の下での38年間は戦争もなく、ゲリラ戦もなく、農民蜂起もなく、労働争議もないという環境が持続し、そのような環境の下で高度成長が実現し、中産階級が成立・成長し、市民社会が形成され、反対勢力や野党が成立・成長してきた。同時に、国民党内部の台湾化、民主化が加速され、民主勢力への譲歩幅が広がり、政府の改革、革新も進んできた。
戒厳令と台湾の民主化については、下記のようないくつかの特殊事情或いは要因を指摘することができる。
第一に、冷戦という国際情勢、すなわち東西対峙の国際政治構造によって戒厳令が長く維持され、その結果、国民党政権の権威主義体制の維持が可能になったということである。仮に朝鮮戦争が勃発せず、アメリカ第七艦隊の台湾駐在もなかったとするならば、毛沢東の中国全土解放計画が実行に移されていたと推測される。
第二に、約200万人の軍隊、約100万人の大陸行政管理官僚の大量流入により、戒厳令の長期持続と、台湾島のコントロールが可能になったということである。現在、中国本土にいる軍隊の規模は約300万人であり、北朝鮮のような軍事国家でも、せいぜい90万人である。一般的には、台湾規模の領土と人口を管理するのに20万人程度の軍隊があれば十分だとされているが、あの当時、通常必要とされる数の10倍以上の兵力と、台湾島の20倍以上の人口規模の中国本土を管理してきた官僚たちを一挙に台湾に入れたことで、国民党による台湾統治は容易になったのだと推測される。
第三に、1950年代、60年代が朝鮮戦争やベトナム戦争など、東西対立の激化した時代であったということである。この時期、アメリカは中国に対して厳しい封じ込め戦略を実施し、一方の中国では、「自力更生」を基調とした毛沢東主導の鎖国政策が実施され、文化大革命による国内の混乱が続いていた。それに対して台湾ではこの時期、国民党政権による外資導入政策と経済発展政策が実施されている。海外の資本、特に華僑資本の流入先は、この時期には台湾しかなかったのであった。仮に大陸中国の改革解放政策が20年早く実施されていたとすれば、台湾経済の発展、中産階級・市民社会の形成はおそらくは全く別の様相を呈していたはずである。それは大陸と台湾との外資吸収力を比較すれば容易に想像できる。台湾は戦後50年かけて1,000万ドルの外貨準備を達成したが、大陸中国の場合は2,000万ドルの外貨準備をわずか20年で達成してしまった。換言すれば、台湾経済の発展は絶好の機会をとらえて行われたということであり、その発展は大陸市場の未開放という条件があって初めて可能になったのだと言える。
2.国民党政権下での政治的安定と経済発展
国民党政権の特徴は、政治的には独裁政治でありながら、経済的には一貫して資本主義であり、市場経済優先であったということである。戦後50年間、台湾はアメリカの太平洋・極東戦略にカバーされ、侵略などの外部からの脅威には一度も晒されることはなかった。だが、その台湾の経済発展が、日本の戦後復興需要や朝鮮戦争、ベトナム戦争の戦時需要(特需)などの外的要因に大きく拠っていたということは否定できない事実である。
前述したように、200万人以上の兵力、100万近くの大陸官僚、文化人などが大挙流入し、「二、二八事件」での2万人以上の流血をもたらした後に、台湾島に戒厳令が布かれたが、その後「二、二八事件」のような流血を伴う大規模な武力鎮圧は起こらなかった。勿論、激しい農民蜂起、労働紛争、武装闘争、ゲリラ戦などもなかった。このような環境の下で、国民党政権は土地改革、経済発展政策、開放政策、外資導入政策を実施し、成功を収めたのである。
ここで今一つ重要な要素として見逃してはいけないのが、国民党自身の反省と自己革新である。蒋介石は共産党との戦いに敗れたことを真摯に反省し、孫文の唱えた「三民主義」の原点に立ち戻って土地改革と経済の発展によって台湾での民心を獲得し、更には大陸での民心を回復することを目指した。歴史に「もしも」は禁句であるが、仮に蒋介石が大陸での大資本家優先、地主優先、軍事優先の政策を台湾でも維持し、官僚の腐敗を放置したままであったとするならば、国民党政権は早晩崩壊していたはずである。国民党は共産党の「打土豪分田地」(地主を打倒し、土地を分配する)のような流血の道を避け、台湾の土地改革を成功させた。そして国際的な経済情勢に基づく中小企業育成政策、外資導入政策、対外開放政策、産業調整政策の導入によって経済発展と所得上昇を実現させた。その結果、中産階級が成長していった。
一方、選挙競争が行われることによって国民党以外の政治勢力(党外勢力)が形成され、それはやがて野党となり、政治の多元化をもたらした。他方で、国民党内部の変化(台湾化、革新化、民主化)や世代交代の進行が、戒厳令の解除、国民党以外の政党設立の容認などを実現した。最終的には、台湾政治の最高責任者である総統の直接選挙が実現し、更には野党候補者が総統に当選したことによって、真の意味での台湾の民主化が実現した。このような政治構造の変化、民主化へのプロセスは世界的にも注目され、特に世界人口の四分の一を占める華人社会から大きな関心が寄せられている。
3.地方選挙における民主化勢力の成長
戒厳令下では、メディア、言論の自由、集会、農民の陳情、農民運動、労働運動、学生運動、反政府運動、デモ、結社、結党などが厳しく制限されていた。例えば、台湾の労働運動を例にとってみると、1960年代70年代以来、大量の農村人口が都会に流入し、膨大な産業労働人口が形成されたが、労働運動はあまり激しくなかった。戒厳令の下では労働者の三つの権利である団結権・争議権・団体交渉権が厳しく制限されていたし、更に国民党が労働組合の各レベルの組織をコントロールしていたために、労働組合は労働者の利益を代表するものではなく、国民党の選挙マシーンの一つになってしまっていた。このことからもわかるように、農民、労働者、学生、反対勢力にとっての活動場所はほとんど存在していなかった
幸い、台湾の地方選挙、すなわち村、町、鎮の長やその議員などの選挙は最初から制限されていなかった。1949年8月15日、台湾省政府主席陳誠などをメンバーとする「台湾省地方自治研究会」(メンバー29名のうち台湾出身者が22名)が設立され、この組織が後に「台湾省各県市実施地方自治綱要草案」を作成した。1950年4月4日、国民党政権は「台湾省各県市実施地方自治綱要」を公布し、その後も「各県市議会議員の選挙免職に関する規定」、「各県市長の選挙免職に関する規定」、「郷、鎮、区長の選挙免職に関する規定」、「村、里長選挙免職に関する規定」などを公布し、地方選挙を実施していった。この地方選挙は、国民党によって厳重にコントロールされており、台湾の人々はそのありようを「選手と審判は国民党一人」だと批判した。しかし、戒厳令下の厳しい政治環境において、このような「自由の隙間」の存在は極めて重要であり、反体制勢力、民主化勢力にとっては絶好の舞台が提供されていたと言っていいだろう。
「党外勢力」は本来は非国民党選挙候補者を意味する言葉であったが、1960年代以後は反体制勢力、民主化勢力の代名詞、シンボルとして用いられるようになった。党外勢力は最初は確固とした組織も持たず、選挙の時に集結するだけの政治団体であった。1957年にリベラル派の学者である雷震が、自ら編集した『自由中国』において国民党の選挙問題を厳しく批判して以降、「中国地方自治研究会」や「地方選挙改正座談会」などの政治組織が設立されるようになった。だが、この時は国民党の圧力によって政党設立までには至らなかった。勿論、このような圧力で党外勢力が消滅することはなく、「中壢事件」、「高雄事件」(美麗島事件)などの流血事件を経験しながら、国民党の不正と戦い続けた。その結果、1969年末の中央民意代表補欠選挙で、党外勢力から立候補した黄信介が初めて当選を果たし、その後、康寧祥も台北市議会議員選挙で当選した。この二連勝を契機に、党外勢力は集団推薦制度、統一助選活動制度、統一スローガン、統一の緑色標示などを採用し、運動の統一化・組織化を図っていった。
1977年11月の五項選挙では、康寧祥、黄信介の「康黄聯線」が大活躍し、党外勢力初の統一行動によって勝利を収めた。1978年には党外勢力の選挙対策機関である「全省党外助選団」が設立されている。1986年9月、党外勢力は思想、組織、幹部などの諸々の懸案をクリアーして民主進歩党を設立し、それを国民党政権に黙認させた。民主化勢力は国民党政権が残した唯一の政治舞台である地方選挙、その「自由の隙間」をフルに活用して、国民党から議席を奪取し、体制との闘いを展開した。農民運動、労働運動がほとんど存在しない状況の中で、地方選挙を通じて団結と拡大を図り、最後には自らの政党を結成したという事実は、民主化の一つのモデルとして注目されている。
4.体制内外での民主化の同時進展
台湾民主化のもう一つの特徴は、経済発展と中産階級の成長が、国民党体制内の民主化と体制外での民主化との同時進展を促したということである。
国民党の「本土化」「台湾化」は、国民党が中産階級、中でも特に「内省人」中産階級の民主化要求に配慮せざるを得ない政治環境を生み出した。国民党の「台湾化」と「内省人」中産階級の増加によって、国民党体制内の民主化は台湾社会全体の民主化とシンクロして進展した。国民党内部の民主化と同時並行で戒厳令の解除や結党容認などの政治的譲歩が適切に行われたことは歴史的な意義があると思われる。国民党政権が戒厳令解除をせず、野党勢力を武力で鎮圧していたならば、台湾の民主化はおそらく10年以上遅れてしまっていたであろう。
最後に、筆者がまとめた「台湾民主化のモデル」を参照していただきたい。
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本当の市民社会の形成
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野党立候補の総統当選 2000年代
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総統の直選 労働組合など圧力団体の活躍 李登輝の改革 90年代
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戒厳令解除 結党容認
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民進党の設立 党外勢力の成長 国民党の「憲政改革」
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80年代
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選挙を巡る中壢、高雄等の事件 江南事件 国民政権の台湾化
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選挙範囲の拡大
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農村中産階級の生成 都会中産階級の形成 国民党の台湾化


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蒋経国の改革 70年代
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蒋介石の死
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労働力の都会流入 産業構造の変化 産業労働者、サラリーマンの増加
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国民所得の向上
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経済の高度成長
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農村地主の産業主転身 ベトナム戦争需要
60年代
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農業の回復、発展 中小企業の国際経済への
参入と発展
国民党の改革 地方選挙による
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朝鮮戦争需要 党外勢力の成長
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農地の改革 経済開放政策、発展政策の実施
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資本主義の経済政策、地方選挙の維持
独裁開発(権威主義)体制の確立 50年代


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2.28事件 戒厳令の実施 反乱鎮定動員時期の宣言 朝鮮戦争の爆発
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米国援助 日本植民地の遺産 大陸からの財産、人材 国民党の反省、革新
内戦失敗による国民党の台湾撤退
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冷戦体勢 東西対立 国、共両党対立、戦争 両岸分割、対立 40年代